■ デッドライン第一部(過去の幻影) - (5)
(5)
タクシーを使って自宅に駆けつけると、家の中は誰もいないかと思えるほど、ひっそりと静まり返っていた。
居間には啓介と義母、それに驚いたことに、引退した医者の太田がいた。
啓介は目を真っ赤に泣き腫らして、ときどきしゃくりあげていたが、取り乱した様子はなかった。その横に義母が、寄り添って座っていた。
啓介は俺の顔を見ても、何の反応も見せなかった。ものを言う気力も無くしたみたいだ。そんな息子の様子に、胸が痛んだ。
太田がそっと俺の腕をつかんで、部屋の隅に連れていった。
「きみのお義父さんが、身元確認に警察へ行ってる。さきほど、電話があった。きみの奥さんに間違いないそうだ」
俺は太田の顔をぼんやりと見た。そして聞いた。
「佳代は──どうして死んだのです?」
自分の声が、他人の声のように聞こえた。
「何も聞いていない。警察から問い合わせの電話が、あっただけだ」
太田はボソッとつぶやくと、補足した。「隣の栗田さんも、一緒に死んでいたそうだ」
「栗田さんも──?」
俺は訳が分からずに、太田の顔を凝視した。
太田は小さく咳払いをすると、言いにくそうに言った。
「きみのお義父さんは多くを話さなかったが、どうやら二人は心中したらしい」
太田の言葉を理解するまでに、しばらくかかった。俺は老人の顔を呆然と見ながら、声が出なかった。
太田は俺の心情を察して、事務的に言った。
「お義父さんはまだ向こうにおられる。私の車で送ってやるから、きみも行きなさい」
俺は太田の後を、夢遊病者のようについていった。そこで思いついて、老人に訊いた。
「向こうに行くって、行き先はどこです?」
太田は慎重に答えた。
「遺体安置所だよ」
俺たちが通されたところは、灰色の壁で囲まれた無機質で殺風景な部屋だった。
中央に、キャスター付きの簡易ベッドが二台並べられている。その上に被せられた、灰色のゴムコーティングされたシーツの膨らみを見て、俺は尻込みした。
(あの下に佳代が──)
俺はその場に立ち尽くして、シーツの膨らみを凝視した。その膨らみには、まったく生命の兆候がなかった。そして、妙に平たく見えた。
(本当に佳代なのか──)
俺は半ば信じられぬ思いで、シーツの膨らみを見続けた。
そんな俺の思いにお構いなく、安置所の担当官はてきぱきとした動作で、簡易ベッドに近づいた。
「確認してください」
シーツが手際良くめくられた。
――佳代だった!
俺は、血の凍るような恐怖を覚えた。生命を失った佳代の顔は、苦痛の叫びをあげているかのようにゆがんでいた。むきだしの喉元に、紫色の痣が襟巻きのように付いている。その横のベッドには、同じ表情をした栗田の顔があった。
俺は顔をそむけた。膝が震えてきた。
(むごい!なんで佳代が、こんな目に合わなくちゃならないんだ)
勇気を奮って、もう一度ベッドのほうを見た。苦悩に満ちた佳代の顔――。これまで夫の身勝手に耐え忍び、悩んだ末に死んでいった佳代。
ふいに熱いものが、喉元まで込み上げてきた。俺は思わずベッドに寄り添い、そっと女房の額に手を置いた。
佳代の父親は控え室にいた。ソファーの片隅にひとりでひっそりと腰掛け、蒼白な顔色をしていた。その表情はうつろだった。俺の姿を見ても、まるで魂の抜け殻のようにぼんやりとしている。
そっと横に腰を下ろすと、義父の体に腕を回した。
「お義父さん──」
その後は、何を言っていいか思い浮かばなかった。
義父は初めて気づいたかのように、のろのろと俺のほうに振り向いた。坊ちゃん育ちの甘さを含んだ顔が、涙でくしゃくしゃになっていた。血の気を失った青白い顔の中で、目だけが赤く充血している。
「ああ──きみか」
義父はしわがれた声でつぶやいて、俺の手を握った。長身のスマートな体型が、丸まって、妙に小さく見えた。まだショック状態から抜けきれていないようだ。子煩悩な彼にすれば、それも当然のことだった。
俺は、これ以上慰めの言葉をかけても、何の役にも立たないと悟った。そこで、義父の体を抱いて立ち上がらせた。
「お義父さん、家に帰りましょう。啓介やお義母さんが家で待っていますよ」
義父は従順に従った。
太田の運転する車の中でも、義父は静かだった。重苦しい沈黙の中で、運転席から太田が声をかけた。
「俊一くん、さっき担当官と話したんだが、佳代さんのご遺体は、明後日の昼過ぎに家に戻される」
「──」
「ご愁傷だろうけど、これからお通夜や告別式の用意をしなければ――私もお手伝いするよ」
「──ありがとうございます」
俺は、言葉少なに礼を言った。実際、太田の心配りには、大いに感謝していた。彼がいなければ、俺ひとりで何をやっていいか、分からなかっただろう。
――◇――
曇天の中、佳代の葬儀はしめやかに行なわれた。
葬式の参列者は多かった。婦人会や学生時代の同級生たち――女性の弔問客が大半だった。そのこと自体が、明るい性格をした佳代の交際の広さを物語っていた。
一方で、俺が勤めている会社の人間が数人、それに、俺が元プロ野球選手だったこともあって、一部の報道陣も詰めかけていた。
式の間中、佳代の父親は、人目もはばからずに涙を流していた。それを見て、俺は良心の呵責を感じた。
篠田修一郎は裕福な資産家で、横浜市内に数本の賃貸オフィスビルを持っている。
彼の一人娘が、とかく女と噂が絶えなかった俺と結婚すると言い出したとき、彼は猛反対した。もっと堅気の職業を持つ男を、娘婿にしたかったのだ。
しかし結局は、娘の強情さに父親のほうが折れた。すでに娘の腹の中に、俺の子供を宿していたのも、その理由のひとつだった。
佳代と結婚して以来、俺に対する義父の態度は軟化した。どうやら、彼には欠けている男性的な何かを、俺の中に認めたのだろう。そのことは、ずっと後、あの事故があって以来、別の形で俺に関わってくるのだが。
息子の啓介は、泣き腫らした目をしていたが、大人のように毅然としていた。祖父の手を握り、いたわるように寄り添っていた。啓介は小さいときから、お祖父ちゃんが大好きだった。佳代の死んだ今、二人の絆はますます深まったように見える。
火葬場から戻る途中で、雨が降りだした。
俺は啓介と並んで、車の後部座席に座っていた。沈黙した息子にあわせて、流れゆく窓外の景色をじっと眺めていた。
ときおりそっと息子の様子をうかがうと、彼は骨壺の包みを膝の上で抱え、まっすぐに前を向いている。
俺が話しかけても、息子は頑なに沈黙をつづけていた。
内心では、息子のしっかりした態度に驚かされていた。彼は目を真赤にして、それでも通夜から告別式にかけて、けなげに涙をこらえていた。まるで、母親の死を境に、12歳の少年が一足飛びに大人になったようだった。
「雨が降りだしたな」
俺は息子に対して、再度の接近を試みた。「啓介、いまさら言い訳なんかしない。父さんが悪かったんだ」
啓介は前を見続けたまま、なんの反応もしめさなかった。
「お前が怒るのも当然だ。父さん、この4年間、ひどかったからな。いつも飲んだくれてばかりいて」
啓介が僅かに反応した。彼は小馬鹿にしたように、鼻をしかめたが、沈黙を通した。
「もう酒を飲むのはやめるよ」
俺はボソリと言った。「これからは、お前と二人きりだ。喧嘩をしていても始まらない。さあ、仲直りだ」
俺は手をさしのべた。啓介はその手を無視した。そして顔を背けると、吐き捨てるように言った。
「僕はグズグズ言うのが嫌いなの。ほっといてよ」
俺は息子の言葉に、ひどく傷ついた。その後はとりつく島もなく、窓の外を眺めるしかなかった。
夕食は寿司の出前を頼んだ。義父母は自分たちの家に戻っていた。
二人きりで食卓に向かい合って、黙々と食べた。食事のあいだ中、気まずい沈黙が続いた。食べ終わると、啓介はそうそうに自室に引きこもった。
俺はなすすべもなく、リビングでぼんやりとしていた。最前から、アルコールの渇きに悩まされだした。4年間つづいた悪癖は、容易に治まりそうになかった。神経がいらいらして、口が無性に乾いた。しかし、息子に約束した手前、飲酒の欲望に耐えていた。
もう一度だけ、息子と話をしてみようと思った。2階にあがり、息子の部屋の前に立つと、耳を澄ませた。部屋の中は物音ひとつせず、シンと静まり返っていた。俺はノックをしようと右手を上げて、まだ迷っていた。
(また、そっけない逆襲にあうのだろうか)
結局、安易なほうを選んだ。
(もう少し時間を置こう。気持ちが落ち着けば、あの子も話をするだろう)
ノックしかけた手をおろすと、自分の部屋に戻った。肝心なときに、三振したような気分だった。
俺は最高の昂揚感を味わっていた。
今の自分には不可能なことは何もない。何でもできるのだ。
悠然と素振りをすると、ピッチャーに向かって構えた。精密機械のように、筋肉組織のひとつひとつが、次の動きに備えてピタリと静止する。
ピッチャーが大きく振りかぶり、第一球を投じた。
視神経が白球を捕らえ、その軌道を追跡する。
一瞬の間があり、次の瞬間、全細胞が爆発した。
バットが真っ芯でボールを捕らえる。小気味よい音を残して、白球がセンター方向に飛んでいく。打った瞬間に分かる、特大のホームランだ。
ゆっくりとダイヤモンドを回りながら、途中でちらりとスタンドを見上げた。大勢の観客が立ち上がって、俺に声援を送っている。
走るスピードを早めた。
景色が流れだし、車に乗っていた。開けた窓から、冷たい風がうなりをあげて吹き込んだ。ほてった頬に心地よかった。
ハイな気分でアクセルを踏み込んだ。助手席で女が歓声をあげる。
スピードメーターの針がぐんぐんあがっていく。
速く、速く、ついには弾丸列車のように──俺は悲鳴をあげた。やめろーっ!
目を覚ましたとき、汗をびっしょりとかいていた。
全身が、おこりにかかったように震えている。夢の余韻で、しばらく動けなかった。やがてノロノロと起き上がると、床に落ちた掛け蒲団を掴んだ。
サイドテーブルから煙草を取りあげて、ベッドの縁に腰掛けた。
煙草に火をつけるとき、俺の手はまだ震えていた。暗闇の中で、大きく煙をはきだした。今は亡き佳代のベッドの輪郭が、かろうじて見て取れた。平たくシーツがかけられて、そこには息づく人体の膨らみもない。
急に孤独感を覚えた。夜のしじまが、妙に虚しく感じられた。
ふと、子供部屋で眠る、啓介のことを思った。自分が不甲斐ないばかりに、あの子には、母親の死を子供らしく悲しむ余裕さえない。
葬式のときも姿勢を正し、顔をまっすぐにあげた啓介の姿。そのいじらしさを思うと、ますます自分が情けなくなる。
栗田と浮気した佳代への怒りは、すっかり消え失せていた。いや、それとも最初から、そんな怒りはあったのだろうか。俺だって野球をやっていた頃は、遠征の先々で、さんざんほかの女たちと寝てきた。
少なくとも、自分の浮気は佳代にばれていないと思っていた。しかし、そうだったのだろうか。彼女が夫の浮気に人知れず涙を流したかどうか、今となっては知りようもない。
ふと、明白な事実に気づいて、愕然とした。
佳代の浮気に怒りを覚えないということは、彼女に対する自分の愛情は、とっくに失せていたということだ。
浮気の現場をとらえた夜、佳代は泣きながら俺の胸を叩いた。――どうして私を殴らないのよ。彼女は訴えていたのだ。自分を愛しているのなら、自分を罰してくれと。
佳代の悲痛な叫びが、頭の中でこだました。
佳代の存在の大きさが、胸のうちに迫った。俺は自己憐びんの殻に閉じ込もって、佳代の感情を踏みにじっていたのだ。そして今、その大切な女性を失ってしまった――。
おもわず頭を抱え込んだ。
しばらくして、暗闇の中で、忍び泣きが聞こえてきた。まるで他人が泣いているような声だった。