■ デッドライン第一部(過去の幻影) - (4)
(4)
あてもなく夜の通りを歩いた。何も考えたくなかった。右膝が痛みだしたが、ひたすら歩き続け、佳代のことを頭の中から閉め出そうとした。
気がつくと、港の公園まで来ていた。
護岸堤防によじのぼり、腰を下ろして岸壁の縁から足を垂らした。
暗黒の海の先で、商船の明かりが寂しげにまたたいていた。堤防に打ち寄せる波の音が、かすかに聞こえてくる。
俺は目に見えぬ海をぼんやりと眺めていた。それから仰向けにゴロリと寝そべった。頭の下で組んだ手に、コンクリートのひんやりとした粗い肌触りが、心地よかった。
しばらくすると、すっかり冷静さを取り戻した。煙草をくゆらせながら、佳代のことを考えた。栗田を浮気の相手に選んだとは、意外だった。栗田は、およそ男らしさとはかけ離れた、中年男だったからだ。
銀行で札束を数えるくらいしか能のない、女のような柔な手をした男――体もぽってりとして生っ白い。
(どうせなら、もっとまともな男を相手にしろってんだ)
ふたたび怒りを覚えた。しかし、佳代の言うことも一理あった。あの事故があって以来、俺が彼女を抱いたことは一度も無い。
(当然の成りゆきか──)
俺は自嘲気味に苦笑した。あれほど俺を崇拝していた息子が離れていき、そして今、女房に裏切られていたのもはっきりとした。
これもあの事故のせいだ。
俺はため息をついた。
あの時のことは、今もって夢に見る。小さな増長と大きな判断ミス。その結果、ひとりの女が死に、そして俺は野球人生を失った。
あのときの悪夢は脳裏にこびりついて、この5年間、ずっと俺を悩ませつづけていた。
「どうかしましたか?」
不意に頭上から男の声がした。ついで光が顔にあてられた。
目を開けると、二人の警官が立っていた。
「べつに」
俺は手で光を遮って、ノロノロと立ち上がった。「ちょっと涼んでいるだけだよ」
「こんな寒い中で?それに、こんな遅くに?」
がっしりした体格の警官が、いぶかしげに聞いた。
「眠れなかったんだ。ちかごろ不眠症でね」
俺はブスッとして言った。質問した警官は不審感をあらわにして、俺の顔を見上げた。
「それで、自宅はどちらですか?」
警官の質問に、俺は相手の顔を穴のあくほど見つめてやった。鼻がボクサーのように潰れているのに気づいた。
俺は、ふてくされて尋ねた。
「おまわりさん、夜の海っぺりで涼んでいたら、いけないのですか?」
鼻の潰れた警官は、少し躊躇した。
「いや。ただ、最近は、夜の波止場の犯罪が多いんでね。あなたも気をつけないと」
「そうですか。じゃあ私は、そろそろ帰りますよ。おやすみ」
俺は警官たちに別れを告げると、さっさと歩きだした。背後から、もうひとりの警官が、同僚に話しかける声が聞こえてきた。
「あれは、野球選手だった遠山俊一ですよ。間違いない――」
次の日から1週間近く、俺は家に帰らなかった。
会社にはいつもどおりに出勤したが、夜はホモバーのマスターの家にしけこんだ。そして毎晩、マスターを抱いた。老人と共有する歓喜と汗のひとときは、束の間、女房の問題を忘れることができた。
「俊ちゃん、悩み事でもあるのかい?」
その日もいくつかの店で飲み歩いて、最後にホモバーに立ち寄ると、開口一番、マスターが言った。
「別に。どうしてだ?」
止まり木に尻を引っ掛けながら、俺は煙草に火をつけた。
「隠さなくてもいいよ。私の家にあんたが来た時から、あんたは深刻な社会派ドラマの主人公のようだったよ」
俺はいらだたしげに手を振った。
「相変わらず口の悪いジジイだぜ。早くウイスキーをよこせ」
「そう急かさないでよ。あんた、いつからそんな、早漏気味になった?」
「爺さん、俺に抱かれて、あれほど善がり狂っていながら、なんてことを言う。やり足んないのなら、今夜は腰が抜けるほど可愛がってやる」
俺はマスターに向けて、中指を突き立てた。「それに、そんな減らず口を叩いていると、店の大事な客を失うことになるぞ。この店は、俺でもってるんだからな」
マスターが朗らかに笑った。
「大丈夫だよ。俊ちゃんが来てくれなくても、イッちゃんが来てくれるから」
マスターが俺の背後を見ながら言った。気がつかなかったが、いつのまにか客が来て、壁のフックに上着をかけているところだった。
その客は背が低いので、精一杯伸び上がり、服をかけるのに苦労していた。俺のファンだったと言う、この前の老人だ。たしか福井とか名乗っていた。
老人は、俺に向かってにこやかに微笑みかけ、短い足をあげて、俺の横の椅子によじのぼった。
「やあ、この前は――福井です」
小男は甘ったるい声で言った。
俺は老人に向かってちょっと肩をすくめ、手に持つグラスを掲げた。それからマスターに向き直った。
「マスター、こんな裏寂れたホモバーでも、常連客があるんだな。よっぽどもの好きな客のようだ」
老人の含み笑いが聞こえてきた。
俺はゆっくりと横を向いた。
福井は俺と目が合うと、言い訳をするように言った。
「いや、ちょっと――。あなたって口が悪いですね」
「あら、イッちゃん、誤解しないでね」
カウンターの奥で、マスターが口出しした。「この子は口で言うほど、悪い人間ではないよ」
俺は即座に応酬した。
「爺さん、大のおとなをつかまえて、この子って、何てことを言うんだ」
マスターは分かっているよと言うように、鷹揚にうなずいた。
「そんなに無理をしなくてもいいの。俊ちゃんは、根は優しい子なんだから。今はちょっと反抗期なだけ」
ふたたび横で、忍び笑いが聞こえてきた。
俺はムッとして福井のほうに振り返ると、その顔をじっと見つめた。
福井があわてて水割りのグラスに口をつけた。
(気分転換に、ちょっとからかってやるか)
老人のずんぐりむっくりした体を見て、俺は考えた。
「タクシーの運転手をやっているって聞いたけど、この時刻は、一番の稼ぎ時じゃないのか?」
「今日は定休日にしているんです」
福井はそう言うと、おっとりと微笑んだ。
拍子抜けしたが、次の質問をした。
「それで、マスターの言うイッちゃんて、あんたの名前?」
「一郎っていうんです」
それを聞いて、こんどは俺のほうが含み笑いを返してやった。
「おかしいですか?」
福井の温顔が少しくもった。
「べつに。いい名前じゃないですか。俺の名前も一がついているんだ」
そこで俺は思わせぶりにクックッと笑った。「ただ、ちょっと──」
福井が追求してきた。
「ただ、ちょっと、なんですか?」
「なんでもない」
俺はそっけなく言うと、本格的にウイスキーを飲みだした。
福井は、ちょっともじもじしていたが、しつこく聞いてきた。
「言ってくださいよ。途中でやめるなんて、卑怯ですよ」
「卑怯?」
俺は憤慨したように言った。「口は災いのもと。口に出せば、相手を傷つけることになるかも知れない。だから無口が一番だよ」
福井は意固地になっていた。
「見かけは柔かもしれませんが、これでけっこう、精神的にはタフなほうです。構いません。どんなことでもいいですから、思っていることを言ってください」
俺は、内心驚いていた。人の良さだけが取り柄の、気の弱い60男だと思っていたのが、意外にも意地っ張りなのだ。
(かわいらしい顔をして。どこまでもつか試してやる)
俺はとぼけた口調で話した。
「一郎って聞いたとき、イメージが合わなくてね。つまりその──俺の抱いていたイメージは、すくすくと育った伸びやかな人間を連想させて──」
俺は思わせぶりに、最後まで言わなかった。アルコールのせいか怒りからか分からないが、福井の色白の温顔が赤らんでいた。
老運転手はブスッとして言った。
「すくすくと育っていなくて、悪うござんしたね」
「アレッ、怒ったのか。さっきは精神的にタフだとか言っていたけど」
俺はしれっとして言った。福井が俺の顔をにらみつけた。しかし、その顔はどうみても、微笑みこそ誘え、怒る迫力には欠けていた。
「俊ちゃん、失礼よ」
それまで心配そうに客のやりとりを聞いていたマスターが、カウンターの奥から声をかけてきた。
「だから言いたくなかったんだ」
俺は心外そうに言った。「やはり、口は災いのもとだ」そして陽気に笑った。
そのときを境に、福井は無口になった。彼はムスッとして、黙々と水割りを飲みだした。
(いい傾向だ。これで干渉されなくてすむ)
俺は胸の内で、ニヤリと笑った。
その時、店の電話が鳴った。
「はい、ニブリックです――もしもし――よく聞こえないのですが――ええ、こちらに来ていますよ――」
マスターが、眉をひそめて受け答えしていたが、顔を上げて俺を見た。
「俊ちゃん、息子さんから電話だよ。なんだか大変なことが起こったみたい」
にわかに胸騒ぎがした。俺はつとめて気を静めるようにして、受話器を受け取った。
「もしもし、啓介?」
とたんに受話器の向こうから、息子の興奮した声が聞こえた。
「いままでどこをほっつき歩いていたの!この1週間、家にも帰らないで──ずっと探していたのに」
そこで啓介は泣き出した。
「ど、どうした。啓介、何があったんだ?」
俺はあせって、どもり声をあげた。
息子がしゃくりあげながら言った。
「お母さんが──」
途端に体中の血が冷たくなった。ギュッと受話器を握りしめながら、あわてて息子に尋ねた。
「なに?よく聞こえない。母さんがどうしたって?」
「死んだ──死んだんだ──」
啓介の声が、尻すぼみに小さくなった。
「母さんが死んだ?」
俺は受話器を握りしめたまま、呆然とした。まったく唐突に、涙があふれてきた。
「聞いているの、お父さん?」
「ああ──」
俺はぼんやりと返事をした。マスターと福井が、心配そうにこちらを見ている。
どうしていいか分からなかった。まるで思考能力が停止したようだ。頭に浮かんだのは、啓介がどうして、この店の電話番号を知ったのだろうということだった。
「お父さん?聞いているの?」
啓介の苛立った声が聞こえた。
「ああ──啓介、どうしてここが分かった?」
間の抜けた質問に、啓介が爆発した。
「そんなこと関係ないだろ!あちこち電話したのに──店のマッチがあったんだよ!」
そこで啓介は、ヒステリックに叫んだ。「とにかく、早く家に帰ってきて!」