最近、LGBTに関するニュースが日本でも増えてきた。(LGBTとは、レスビアン、ゲイ、バイセクシャルおよびトランスジェンダーの頭字語である)
そのニュースのほとんどは、LGBTに対して肯定的な内容である。
これは近い将来、日本でも、われわれ熟年男色家が、男性同士の愛を公然と表現できる環境になる、と推測できる。
と言っても現実の世の中は、男色であることを人に知られるのは恥ずかしい、という風潮がまだまだ色濃く残っている。
ところが、歴史の裏本を紐解くと、日本は男色先進国と言えるほど、男色がお盛んだったことがわかる。
学校の歴史の授業では学ばなかったこと――男を愛した歴史上の人物が数多く存在し、それを実証するものとして、書物や絵画が数多く今の世に残されているのである。
わたし自身がそういった書物をひとつひとつ読解したわけではないが、ネット情報や聞きかじった知識にわたしの憶測を交えて、以下に記述してみよう。
日本における男色は古くから存在していたようだが、それをメジャーにしたのは、空海(弘法大師)である。空海は遣唐使として唐に渡り、日本に戻って来て密教を広め、真言宗を開いた。そのとき唐の文化のひとつ、男色文化を伝えたといわれている。
当時、空海のライバル的存在だったのが、唐から戻って天台宗を開いた最澄である。
最澄は超エリートだが、プライドを捨てて、格下の空海に密教の教えを請うた。
生憎それは果たされず、さればと今度は泰範という一番弟子を空海のもとに送った。ところが、泰範はすっかり空海に心酔したのか、密教を修得したあとも最澄のもとに戻ってこなかった。
そこで最澄は「老僧を棄つるなかれ」などと、何度も熱烈なラブレターを弟子に送るが、泰範(美男子だったようだ)は結局、最澄のもとに戻らなかった。
この三人の間で、今で言う三角関係があったのかは知らないが、仏教の宗派の中でも男色が盛んだったのは、天台宗と真言宗と言われているから、推して知るべしであろう。
ところで、仏教に「女は穢れた存在」という考えがある。
女犯をタブーとした寺院だが、男色を奨励したわけではなく、むしろ禁止していた。
しかし僧といっても人間、性欲は抑えることができない。結果、寺に奉公する稚児と関係するのが盛んになった。仏教では都合の良いことに、稚児はある種、性別を離れた神聖な存在とみなされていたのである。
稚児は年齢的にみれば、十二歳から十八歳くらいの少年である。これが現代であったなら、児童ポルノ法で犯罪行為となるところである。
さて平安時代、唐の国は文化の最先端とされ、貴族たちは、唐にあこがれを持っていた。そこで必然的に、貴族社会にも男色文化が取り入れられた。
ただし、平安貴族は僧侶たちと違って、男も女も両方たしなむ、バイセクシャルであったようだ。
資料に残る有名人では、後白河法皇、後鳥羽天皇、藤原頼長などである。とくに藤原頼長(左大臣まで出世した)あたりは、そのへんのやりとりを日記に克明に書いていて、男同士の3Pなども記されている。

つぎに男色文化は、武家社会に浸透する。
武家社会では「女色に溺れるのは恥」という考えがあった。それに仏教の「女は穢れた存在」という考えが相乗された。
武士道では「義」が尊重され、それが男同士の結束――心と体のつながりへと進む。
つまり戦国時代、戦いに勝つゲン担ぎもあっただろうが、「女犯をせず男色一筋のほうが真の武士」的な風潮があった。
この場合、男色の相手役の多くは小姓であった。彼らは、主人の身の回りの世話をすると同時に、性処理の役目もさせられたのである。また、体の絆を結んでおけば、いざというとき身を挺して主人を守るから、という説もある。
その方面の有名どころでは、足利義満、織田信長、武田信玄、上杉謙信、伊達正宗、徳川家康、等々そうそうたるお歴々である。
江戸時代に入ると、天下泰平のもと、男色は町人たちの間でも大流行する。
有名人では松尾芭蕉や井原西鶴などの名前があがるが、ここで徳川三代将軍、家光について触れておこう。
徳川家光はお爺ちゃんの家康の血を引いたのか、男好きの最たる人物だった。彼は若衆歌舞伎の大ファンで、自らも化粧をして歌舞伎踊りの真似事をした。
彼と関係した小姓たちの名前も複数、記録に残っている。その多くは、家光の寵愛を受け若くして出世したが、中には妻帯して子供をもうけたことで、家光に嫉妬されて職を失った者もいる。
乳母の春日局はこんな状況を憂い、美少年系の顔立ちをしたお万の方を家光にあてがい、ようやく世継ぎを得たのである。
さて江戸町民の男色であるが、その大本となったのが歌舞伎である。
歌舞伎の元祖は、出雲の阿国ひきいる女の芸能集団であるが(裏では売春もやっていた)、それが禁止されると、美少年を集めた若衆歌舞伎に発展した(彼らも男を相手に売春した)。これも禁止されると、こんどは成人した男たちによる野郎歌舞伎になる。
ところが、これにも抜け道があった。
役者になる前の少年たちは、「陰間」として売春をやらされた。「陰間茶屋」という売春宿が立ち並び、堂々と風俗営業をしていたのである。
時代は移り、明治時代。
この時代、男色者が一番多かったのは薩摩藩といわれる。上野公園に銅像のある西郷隆盛さんも男好きだったそうだが、出処は明らかでない。ただし、彼が30歳のとき、清水寺成就院の住職、月照とともに錦江湾の寒い海に入水自殺を図ったという事実から見て、やはりそうなのかと思う。
さて、明治になって男色に対する国民の見方も、陰りを見せてくる。
つまり、文明開化によって西洋の文化が日本に入って来るとともに、「男色は悪」とみなす、キリスト教の考えも伝わってきたからである。
もっとも、一概にキリスト教と言っても、カトリックとプロテスタントでは、同性愛に対する考えも違うようで、プロテスタントは寛容的と聞く。
かくして男色文化はじょじょに薄れていくが、男たちだけの世界である軍隊では、根強く残っていた。ある外国の評論家は日露戦争を評して、日本の軍隊が強かったのは兵士同士の愛である、と記している。
ここで日本の男色文化の推移をおさらいしてみると、僧侶⇒貴族⇒武士⇒町人という流れが見えてくる。
この全体の流れを俯瞰していると、日本における男色が、なにも特別のことではなく、ごく当たり前に存在していたことが分かる。
そして、重大なことに気付く。
それは、現代の日本では、男同士が男性意識のまま愛し合うことが大半であるが、歴史に残る男色世界では、明確に男と男が愛し合うという図柄は見えてこないのである。
たとえば江戸時代の浮世絵に、男色図というのがたくさん残っているが、いずれも男色の相手は、若い女性と見紛うほどの美形の若衆である。
これから見えてくることは、身分が縦割りの封建時代では、男同士が対等の関係で愛し合うのは難しかったということであろう。稚児にしても小姓にしても陰間にしても、年下、格下、もしくは女の代用として、男たちに愛されていたのである。
これはフケ専のわたしとしては、はなはだ不本意である。
壮年男が爺さんを可愛がってもいいじゃないか!その逆も然り!また、爺さん同士でやってもいいじゃないか!
失礼。つい我を忘れました。――話をつづけます。
明治から大正、昭和の初期にかけて、男色文化の衰退する中、男を愛した著名人としては、江戸川乱歩、稲垣足穂、三島由紀夫、等の文筆家があげられる。
『少年探偵団』を書いた江戸川乱歩は少年が好きだった。また三島由紀夫は自分が男色家であることを隠していた節があるが、彼の行動を見れば男色家であるのはバレバレである。
そしてあまり人に知られていない、稲垣足穂。彼の書いた集大成的エッセイ『少年愛の美学』は、三島由紀夫の後押しがあって、第1回日本文学大賞を受賞した。
稲垣足穂は彼独特の性愛観を持っていた。人間を口から肛門にいたるひとつの筒とみなして、現在も使われているA(アヌス)感覚とV(ヴァギナ)感覚という言葉を作りだした。
また彼は、尻とアヌスの讃美者で、同じ趣味を持つわたしにとって、とても嬉しい限りである。
尻は「人体にあって最も愛嬌のある、福々しい、いついつまでも齢を重ねないような部」であり、アヌスは「あたらしい喜びを与えてくれる謎めいた穴であり、タブーを破ることでさらに刺激的になる性の香辛料」なのである。
アヌスが排泄器か性器かはともかく、足穂が主張しているのは、「A感覚こそがすべての性愛の源であって、V感覚やP(ペニス)感覚はその補助的な存在でしかない」というのである。
つまり、女性のヴァギナは少年のアヌスの代用品でしかなく、本物の少年のアヌスには到底及ばない、と言っているのだ。
以上、日本人の男色の歴史を書き連ねた。中にはわたしの勘違いもあるかも知れないが、その場合は平にご容赦を願いたい。