■ デッドライン第一部(過去の幻影) - (3)
(3)
次の週は札幌出張だった。月曜日の昼過ぎから羽田を飛び立ち、その日の夜は、顧客と札幌の夜の街にくり出した。
ビール園でジンギスカン鍋の食事をとり、ビールをしこたま飲んだ。
その後は、すすき野のスナックに行った。客に合わせてウイスキーの水割りを飲んだが、ちっとも酔いが回らない。
翌日は午後の2時半までに、得意先廻りを3件こなした。
あとは3日目に予定している1社だけだ。先方に電話を入れると、担当者が急用で、明日は会えないと言う。もともとたいした用事でもなかったので、1日予定を早めて東京に戻ることにした。さいわい夕方5時の飛行機便が空いていた。
俺は飛行機の中でウイスキーを飲みつづけ、東京に戻ると、なじみの店に直行した。
自宅に戻ったのは、深夜の12時近くだった。いつものことで、女房に連絡を入れていなかった。
家の中はひっそりと静まり返っていた。居間のソファーでくつろぐと、ネクタイを緩め、口直しのウイスキーを飲んだ。
そのとき、どうした風の吹き回しか、女房が起きてきた。
「あなた、札幌ではなかったの?」
寒そうに両手でガウンの襟元をかき寄せながら、彼女は尋ねた。
「ああ、先方の都合が悪くなった。それで一日早く、戻ってきたんだ」
佳代のガウン姿を眺めながら、俺はものうげに答えた。彼女がガウンの下に何も着ていないのは、感じでわかった。身長165センチのすんなりとした肢体。ウイットに富んだ瞳と上品な鼻。少し大きめの唇はふっくらとして、情熱的だ。
子供を生んで40歳になるというのに、その均整のとれた容姿は、すこしも衰えていない。
しかし俺は、なにも感じなかった。
ふと思った。こうして女房の体を見ても、なんの欲望も感じなくなって、どのくらいになるのだろう。あの事故があって以降なのは確かだ。
それにしても、彼女はどことなくソワソワしていた。
「めずらしいな」
俺は、ぼそりと言った。
「えっ?」
「お前がわざわざ起き出してくるのがだよ」
1年の3分の1が出張で、そうでなければ飲んだくれて深夜に帰ってくる俺を、佳代はとっくに見放していたからだ。
「物音が聞こえたからよ。泥棒かと思った」
「どうして今夜にかぎってだい?」
「目が覚めたのよ。あなた、あいかわらず酔っぱらっているわね」
女房の口調に、いらいらした調子が交じってきた。
彼女の感情の高ぶりを感じて、俺は肩をすくめた。立ち上がると、両腕を広げて大きく伸びをした。
「酔ってはいるが、酔っぱらってはいないよ」
そう言うと、我ながらしっかりとした足取りで、2階に向かった。
寝室に入った途端、微かな匂いを嗅ぎ取った。甘ったるいオーデコロンと汗の匂い。あきらかに男の匂いだ。
振り返ると、女房に向かって言った。
「相手は誰だ?」
佳代はギョッとしたようだが、かろうじて立ち直った。彼女は挑戦するように、俺の顔をまっすぐに見て、聞き返した。
「相手って何のことよ?」
俺は何も言わずに部屋を横切って、バスルームに向かった。浴室には誰もいなかった。衣類かごを調べ、ついでトイレを調べた。蓋とともに便座が上にあげられている。
「あなた、なにしてるのよ!」
女房の口調が、ヒステリック気味になってきた。それにかまわず部屋に戻ると、クローゼットのドアを引き開けた。衣類をかき分け、中を調べたが異常はなかった。
ふと思いついて、ベッドの横の屑入れに近寄った。中身をかき回していると、それは丸められたティッシュペーパーの中にあった。
「めずらしいものが見つかったぜ」
俺は、親指と人差指で摘みあげたコンドームを、女房に見せた。結び目から垂れ下がったゴム袋の中に、白濁した液体が入っている。
佳代は開き直ったように、俺の顔をにらみつけたが、黙っていた。
「お前の愛人は思いを遂げたってわけだ。それにしてもたっぷりと出したな」
俺は汚らわしそうにそれを屑籠に捨て、ズボンで指をぬぐった。それから壁ぎわに歩み寄り、壁に架けられた大切な思い出のホームランバットを取り外した。
「さてと、サカリ猫はどこに隠れているかな?残るはベッドの下か。それとも、とっくにとんずらしたか」
バットを振り上げると、女房のベッドの横面をおもいきり引っぱたいた。
衝撃でベッドが揺れた。
「あなたっ、やめて!」
佳代が悲鳴を上げた。
少し遅れて、ベッドの下から、男の弱々しい声が聞こえてきた。
「待って──待ってくれ」
ベッドの下から苦労して這い出したのは、隣に住む栗田だった。服を着る余裕がなかったのか、素っ裸だった。生皮を剥がされた熊のように、なんとも滑稽な格好だ。
衣類を丸めて股間に押しつけ、彼はおずおずと立ち上がった。赤ん坊のように艶っぽい顔が色素を失って、二重になりかけた顎が震えている。
「これは、これは――。どこの色男かと思ったら、栗田さんじゃないですか」
俺は馬鹿丁寧に言った。「まずは服を着ろよ。大事なものが風邪をひいちまうぞ」
栗田は恥ずかしそうに後ろを向いて、パンツをはきだした。むきだしの尻が、女のようにぽってりとして、揺れ動いた。
俺はチラリと女房の顔を見た。彼女の顔は能面のように、無表情だった。
(よりにもよって、こんな生っ白い中年男を、ベッドに引っ張り込むなんて)
栗田の温室培養のような生白い後ろ姿を見ながら、佳代が情けなくなってきた。
「子供が寝ているんだ。外で話をしようや」
栗田が服を着終わると、俺は言った。
「あなた──」
佳代が心配そうに、俺に声をかけた。
俺はさえぎった。
「大丈夫だ。俺たちは大人だ。たかが色恋沙汰で、騒ぎ立てはしない」
俺たちは外に出た。夜の冷気が押し寄せた。酔いなどとっくに醒めていた。
栗田に向き直った。
彼はおびえたように後ずさって、背後の壁にへばりついた。丸っこいあごが、かすかに震えている。
栗田の体に密着するように近づいて、押さえた口調で訊いた。
「俺の女房に、乗っかり出したのはいつからだ?」
栗田は哀れっぽい顔をして、口を開く前に、唇を舌先で湿らせた。ピンク色をして、妙に艶かしい唇だ。
「2年ほど前から──」
栗田はかすれ声で言った。
「2年間も気づかないなんて、間抜けな亭主だと思っているんだろうな?」
栗田はあわてて、顔を横に振った。
「あんたは友達だと思っていたぜ」
「ああ──」
栗田はバツが悪そうにうつむいた。
「それで、佳代のことをどう思っているんだ?」
「あ、愛している」
ふいに俺の頭の中で、佳代にのしかかって、だぶついた腰をうごめかせる、栗田の姿が目に浮かんだ。
俺は激情に駆られて、栗田の胸倉をつかむと壁に押さえつけ、もう一方の手を下に伸ばして、男の急所を掴んだ。
栗田がくぐもった悲鳴をあげ、股間の苦痛から逃れようともがいた。
俺は栗田の胸を押さえたまま、やわな肉の塊を包み込む掌の圧力を強めた。
「あっ、あ──やめて──」
栗田の顔が苦痛にゆがんで、肉づきのよい顔一面に汗がにじみ出た。
俺は顔を近づけ、怒りを抑えてつぶやいた。
「いいか。タマを握り潰して、あんたをオカマにしてやってもいいんだぞ」
そのとき、手の先が濡れてきたのを感じた。
俺は舌打ちした。栗田が失禁したのだ。
手を離すと、右の拳を栗田の腹に叩き込んだ。手加減したつもりだったが、栗田は声もなく地面にうずくまった。彼は両手で腹を押さえ、嘔吐しだした。
「いいか、これから他人の女房を抱くときは、それなりの覚悟をしてやるんだな」
俺は押し殺した声で言うと、栗田を残して家に戻った。
部屋に戻ると、佳代は放心したように、ベッドの縁に腰掛けていた。
俺は押し黙って、女房の横に並んで腰を落とした。
部屋の中に沈黙が流れた。しばらくして、俺はぼそりと言った。
「あいつが好きなのか?」
佳代は答えなかった。
俺は追い討ちをかけるように言った。
「お前がデブ好みだとは知らなかったぜ」
「──寂しかったのよ」
佳代が小さな声でささやいた。
「あなたは毎晩、飲んだくれて、ろくに私を構ってもくれなかった。あなたの目の中には、私の姿などまるで映っていないのよ」
その声がじょじょに大きくなった。「4年間もよ。私だって感情のある人間よ」
俺は女房の言葉をさえぎるようにして、冷静に言った。
「最初に誘ったのは、あいつなのか?」
「あなたが事故で入院しているとき、あの人は奥さんと離婚したばかりだった」
彼女は前屈みになって、両手でこめかみを押さえた。「最初はそんなつもりじゃなかった──ただお話をして、お互いの寂しさを紛らわそうとしたのよ。あの人は優しかった──」
感情が昂ぶってきて、彼女は大きく手を打ち振った。
「私だって、人の温もりが欲しくなるわよ。軽蔑するのなら、しなさい!」
「軽蔑なんかしないさ」
俺はポケットから煙草を取り出して、火をつけた。「あいつは俺と違って、優しいだろうさ。それで──ベッドの中で、あいつは良かったのか?」
佳代は、弾かれたように立ち上がった。
彼女は拳を握りしめ、俺をにらみながら、わめいた。
「あなたの考えることは、そんなことだけね!確かにあの人は、あなたのようなマッチョじゃないわ。でも彼には、相手をいたわる優しい気持ちがあるわ!」
「だからと言って、あいつとこの部屋で寝ることはないだろうが!」
俺は反射的に立ち上がると、怒鳴った。そこで思い直して、声を落とした。「この家には、12歳の子供がいるんだぞ」
「そんな体面を取り繕う必要がどこにあるの。だって今はもう、家族はバラバラじゃないの!」
佳代は泣いていた。
「だから、浮気してもいいって言うのか!」
俺は怒鳴り返した。「とにかく男と寝たいのなら、外でやってくれ!」
佳代の感情が爆発した。
「どうして私を殴らないのよ!くやしかったら私を殴りなさい!」
彼女は泣き叫びながら、俺の胸を拳で叩いた。「あなたは、怒る感情までなくしてしまったの!」
俺はうるさそうに女房の体を払いのけた。ベッドの上で泣き伏す彼女の姿をしばらく眺めていたが、そのうち俺は部屋を出ていった。