■ デッドライン第一部(過去の幻影) - (2)
(2)
目を覚ますと、まず襲ってきたのは、締めつけるような頭痛だった。
思わずうめき声をあげて、顔をしかめた。口の中が苦っぽい。左手首に付けっぱなしの腕時計を見ると、すでに10時を過ぎている。
頭痛をこらえて、ベッドから抜け出た。火照った肌に、晩秋の冷気が心地よかった。
洗面所に行って、鏡をのぞき込んだ。青白い顔に髭が伸びて、目が血走っている。
(まるで凶悪犯の顔つきだな)
水でごしごしと顔を洗って、うがいをした。面倒なので髭は剃らなかった。寝室に戻って、下着をつけずに綿のシャツとジーパンを身につけた。
1階に降りると、女房と息子の姿はなかった。
(また、お出かけってやつか)
俺は舌打ちした。案の定、食卓の上に書き置きがあった。
『啓介のピアノコンサートがあるので出かけます。帰りは4時ごろになります。佳代』
その横に、息子のなぐり書きがあった。
『酒を飲みすぎるな!啓介』
(ぬかせ!)
書き置きをクシャクシャに丸めると、屑かごに向かってほうり投げた。紙くずは縁に当たって、床に転げた。以前なら百発百中だったのに――。
少年野球チームに入っていた啓介が、野球をやめてピアノだけに絞ったのは、俺が事故に遭ってからだ。そのことに、俺が文句を言える筋合いはない。
食欲はなかった。
結局、ガラスポットに入ったコーヒーを、ガスコンロで暖め直すだけにした。
コーヒーカップを片手に、居間のソファーにもたれかかって、ぼんやりと過ごした。煙草に火をつけ、そこで灰皿がないのに気づいた。
俺は毒づいた。また、啓介が隠したのだ。
コーヒーを飲み干して、カップを灰皿代りにした。
窓の外を見ると、色づいた柿の木の葉が残りわずか、枝にしがみついている。
1メートルほど下がった燐家の庭では、隣人の栗田が庭掃除をしていた。銀行勤めで、甘ったるい顔と大柄な体格をした50男だ。バツイチの男やもめで、俺たち家族がこの家に引っ越してきて以来、親しく近所付き合いをやっている。
栗田は几帳面な性格らしく、庭箒を使って、ゴミのひとつも逃さないかのように、丁寧に作業をつづけている。
(手のかかる一戸建てに一人で住んで、面倒くさくないのか?俺だったら街中のマンションに移るな)
見ていると、栗田がひょいと顔を上げ、俺の姿に気づいた。そのとき奇妙なことに、彼はちょっと怯えた表情をした。それから気弱げに微笑んで頭をさげた。
俺は小さくうなずいて、挨拶を返した。
午前中は、新聞を見たり、テレビを見たりして過ごした。昼になると、さすがに腹が減ってきて、冷蔵庫にあるハムと卵を使って、簡単な料理を作った。
そのころには、二日酔いがようやく治まっていた。すこし心にゆとりが出来たので、2階に戻ると髭を剃った。
気分がすっきりした。ふと思い立って、山下公園に行ってみることにした。
部屋を出る前に何を着ようかと考えたが、結局いつも通り、古ぼけた革ジャンパーを着ていくことにした。
思い出の服だった。俺がプロ野球界にはいったとき、親父が買ってくれたものだ。頑固者でなんの取り柄もなかったが、野球だけはこよなく愛していた親父。その親父と喧嘩別れして一度も会っていない。――野球人生の終焉とおふくろの死。
自暴自棄になっていた俺は、ひどいことを言ったのだ。おふくろが死んだのは親父のせいだと――。
そのときの親父の悲しそうな顔。悔悟の念がこみあげてくる。
玄関ドアに鍵をかけて、通りのほうに振り返った途端、会いたくない人物の姿を目にした。太田がニヤニヤ笑いを浮かべて、通りからこちらを見ていた。どんよりと突っ立つその姿は、まるでタヌキの置物だ。
老人は俺の主治医だったが、昨年、医院を息子に引き継いで、今は引退して悠々自適の身分だ。
「よう、4番バッター。足は治ったのか?」
太田が声をかけて、門から中に入ってきた。いつも俺の顔を見ると、彼の第一声は決まっていた。
俺はとぼけることにした。
「なんのことだ?俺はこの通り、五体満足だぞ」
「それはわしが決める。お前は患者、わしは医者だ」
「ケッ、やぶ医者のくせに、よく言うぜ」
「そんなことを言ってると、罰が当たるぞ。さあ、見せてみろ」
太田は太った体を窮屈そうにかがめて、俺の右膝を掴んだ。
「痛むか?」
「全然──」
「膝を曲げてみろ」
俺は老人に言われるままに、膝を屈伸した。
太田は、よっこらしょ、と声に出して立ち上がった。
「よし。ちょっと歩いてみろ」
俺は意識して、普通に歩こうとした。それでも、右足をひきずってしまう。
「まだまだだな。病院には行ってるのか?」
太田が、俺の歩く様子を見ながら言った。
俺は振り返ると、老人をにらんだ。
「先生、俺はこれで満足しているんだ。それに病院に行ったって、これ以上は治らんぜ」
「それが素人の浅はかさだ。お前が真面目に病院に通っていたら、そんなビッコにならずにすんだのに。──もっとも、わしが何を言おうと、天の邪鬼のお前だ。言うことを聞きよらんが」
(ケッ、クソじじいが、何を言う。てめえこそ、ひねた性格してるじゃないか)
俺は太った老人を見ながら、胸の内で毒づいた。
「どこに行くんだ?」
太田がきいた。
「山下公園──」
途端に、太田が嬉しそうな顔をした。
「ほう、それはいい。じゃあ、わしも一緒に行ってやろう」
「──別にいいよ。俺はひとりで散歩したいんだ」
「いいや、お前ひとりじゃ心配だ。お前はまだ、心の病も治りきっていないからな」
「ちょっと待てよ、先生。なんで俺が心の病だ。俺は正常だぜ」
「ほう、そうかい?だったら、お前が車を運転して、公園まで行こうじゃないか」
俺はちょっとたじろいだ。
「ああ、運転してやらあ──でもな、生憎、女房が出かけて、車は家にないんだ」
老人は引き下がらなかった。俺の顔をのぞき込むようにして、無遠慮に言った。
「だったら、わしの車を使え。わしの家に行けばあるぞ」
太田の車はベンツの大型車だ。俺は老人に弱みを見せないために、平然と車のドアを開けた。しかしそこまでだった。
運転席に座ったとたん、心臓の鼓動が早くなった。それでも俺は、ハンドルに触れないように気をつけて、キーを差し込み、ひねってエンジンをかけた。腹に染み渡る始動音。それからハンドルを握った。
その途端、体が動かなくなった。手の平に汗をかいている。
「やはり、まだ駄目のようだな。わしが運転する」
太田が、妙に優しい声で言った。
俺は唇を噛みしめて、おとなしく老人の言葉に従った。外に出ると、助手席に移動せずに、後部座席に座った。
太田は俺をチラリと見たが、何も言わなかった。彼はゆっくりと車を発進させた。
太った風采に似合わず、運転がうまかった。年配者らしく、ゆったりとして、それでいて遅滞することもない。
公園の近くに来ると、市営駐車場に入った。ほとんど満車状態で、最上階にかろうじて空きを見つけた。
駐車場を出ると、公園まで歩いた。樹木は冬支度にはいって殺風景だが、天気がよかったので、公園内はいつもより人出が多かった。
その中の数人が、現役時代の俺を知っていて、驚いたようにこちらを見た。声をかけられるのが煩わしかったので、ポケットに入れたサングラスをかけた。
公園内をぶらつき、人通りの少ない岸壁のほうに向かった。
太田は、その太った体型にしては驚くほどの身軽さで、岸壁の上によじ登り、堤防の縁に腰掛けた。俺もその横に並んだ。
俺たちはしばらくの間、押し黙って海を眺めていた。
左手に埠頭が海に向かって伸び、その先はゆったりとうねる灰色の海。遠くベイブリッジがかすんでいた。
太田はさきほどから、右手で胸のあたりをさすっていた。老人が心臓病を患っているのは知っていたが、俺は黙っていた。そのことを口にしようものなら、いずれは俺の右足の膝に話題が戻るのは、目に見えている。
海を眺めながら、太田がポツリと言った。
「仕事のほうはどうだ?」
「──べつに。どうってことはない」
「あまり面白くなさそうだな」
「面白いとか面白くないという問題じゃない。食うために働いているだけだ」
「しかし、それじゃ、人生が味気なくなるだろうが」
「仕方がないだろ」
俺はちょっと語気を荒げた。そして自暴気味に付け加えた。「身から出た錆だ」
太田は俺のほうをちらりと見て、話題を変えた。
「この前見かけたけど、啓介ちゃんも大きくなったな」
「体は大きくなったけど、まだまだガキだよ。もっとも憎まれ口を叩くのは、一人前になってきたが」
「おいおい、お前たち親子は人一倍、仲が良かったじゃないか。休みには、いつも一緒に遊んでいただろ」
「昔の話だ」
俺はぼんやりとつぶやいた。
「奥さんとはうまくいってるのか?」
太田の露骨な質問に、俺は老人をにらみつけた。
「先生、さっきから質問ばかりだぜ。それが先生と何の関係があるんだ」
太田はおどけたように、肩をすくめた。
「そうとんがるな。友人としての老婆心だ。しかし、そうやって怒るところをみると、奥さんとはうまくいってないようだな」
「──」
俺が黙っていると、太田はのんびりと話を続けた。
「わしはお前が好きだ。野球選手時代のお前は輝いていた。天衣無縫といえるほど明るくて、図太くて、したたかだった。どんなにプレッシャーを感じるような場面でも、お前は飄々としてファンの期待に答えてくれた」
「先生、何が言いたいんだよ?」
俺がさえぎると、太田は悲しげな目でこちらを見た。
「今のお前は、自己憐憫の殻に閉じ込もっているだけだ。そろそろ過去を捨てて、前を向いたらどうだね?」
俺はいらだたしげに手を振った。
「ああ、そうしたいよ。――出来ればね」
「出来ないのか?」
「もう少し時間が必要だ。まだ何をやったらいいのか、きっかけがつかめない。とにかく先生には感謝しているよ。こんな落ちぶれた俺に、声をかけてくれるのは、先生だけだからな」
俺は本音で言うと、立ち上がった。「先生、そろそろ帰るぜ」
そのあと老人の運転で家に帰るまで、俺たちはほとんど口を利かなかった。
別れ際に、太田はめずらしく真面目な顔で言った。
「俊一、困ったことがあったら、わしのところに来るんだぞ」
俺はそれに答えず、玄関に向けて歩き去った。