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デッドライン第一部(過去の幻影) - (1)
(1)

酔いが回るにつれて、また過去の幻影が現れてきた。栄光の日々と突然襲った挫折。忘れようとして酒を飲み、酒を飲むと、ますます鮮明に思い出してしまう――。
いつも堂々巡りだった。
あと2ヶ月で45歳になるというのに、こんなことを4年間も続けていた。かつては鍛えぬいて、無駄な贅肉ひとつなかった肉体が、今や脂肪の層に覆われつつある。
しかし、もはやそんなことも気にならない。さしあたっての現実的な問題と言えば、胸の厚みが腰に移動して、以前穿いていたズボンが、いずれもお蔵入りしたくらいだ。
俺は幻影を振り払うように頭を振り、カウンターの上のボトルを掴んだ。手元がおぼつかなかった。
「俊ちゃん、もうやめなさいよ」
マスターの声がきこえた。
ものうげに顔をめぐらすと、カウンターの奥から頭の薄い初老男が、息子をしかるような目つきでにらんでいる。
マスターは、男好きが高じてサラリーマンを辞め、スナックをやりだして10年になる。気に入った客には、そのすんなりとした肉体を許しているが、俺がとやかく言う筋合いはない。なにしろ、俺もその客のひとりだからだ。
店のテレビでは、アメリカの大統領選挙で、若きビル・クリントンが当選したと賑々しく報じられている。同じ年頃なのにえらい違いだ。
俺はマスターの忠告を無視して、残り少ないボトルの中身を、空いたグラスに注いだ。酔った手つきのわりには、琥珀色をした液体は、一滴もこぼれずグラスにおさまった。
再び、マスターの声。
「俊ちゃん。明日は休みでしょう。早く家に帰ってやりなさいよ。奥さんが待っているでしょう」
俺は面倒くさそうに手を振った。
「マスターだって、知っているだろ。俺と女房は終わったんだよ」
それからカウンターの上のグラスを取った。
マスターは、あきらめたように肩をすくめた。
俺は手にしたグラスの中身を味わうように、ちょっぴり口に含み、それから一気に飲み干した。それは単なる俺流儀の飲み方で、その実、もはや味覚など残っていない。あるのは胃を焼き尽くすような刺激と、そのあとの亡羊とした温もり──。
惰性的に煙草に火をつけ、煙を大きく吐き出した。紫煙がドーナツ状に空気中を漂い、膨らんで消えていく。それをぼんやりと眺めていると、ふたたび耳に歓声が沸き起こった。
(ホームランだ。見なくても、手に残った感触でわかる。今度はどんなパフォーマンスで、観衆に答えてやるか──)
俺はノロノロとボトルに手を伸ばしながら、ひとりほくそ笑んだ。

左の方から声が聞こえてきた。
「あのう──マスターが言うように、そろそろ控えたほうがいいですよ」
顔を上げて声のしたほうを見た。いつの間に来たのか、とっちゃん坊やのような、年寄りの小男がいた。こちらを見る茶色のつぶらな瞳が、まるでガキのように純真そのものだ。
俺は老人を無視して、何も言わずにボトルに向き直った。
ふたたび老人の声がした。
「あなたは遠山俊一さんですね?」
(爺さん、いいかげんにしてくれよ──)
俺は苛立ちを押し殺して、ものうげに振り返った。そしてぶっきらぼうに言った。
「ああ――それで?」
「やっぱり!私はあなたのファンだったのですよ」
(ファンだった。それはそうだよな、過去の話だ。爺さん、あんたの語法は正しい)
相手が気まずくなって目を逸らすまで、まじまじと顔を見続けてやった。大福餅のように丸っこくて、生っ白いとぼけ面だ。間のあいた薄くて短い眉毛と、ガキっぽい小さな瞳が、まぬけ面にピッタリだ。
ところが、どうやらその老人は、面の皮だけでなく心臓のほうも、厚ぼったい脂肪の層で覆われているようだ。年寄りは、人懐っこい笑みをウブ面に刻み込んで、無神経にも話をつづけた。
「ジャイアンツとの優勝決定戦。最終回、ツーアウト満塁で、あなたは逆転ホームランを打った。あのときのことは、思い出すたびにゾクゾクとしてきますよ」
そう言うと、いたずらっぽくウインクして、手にしたグラスを掲げた。
老人の少し鼻にかかった猫撫で声が、気に障ってきた。
(あんたの声を聞いていると、俺もゾクゾクしてきたぜ)
俺は無愛想に言った。
「そんなのは大昔の話。今年はヤクルトと西武が優勝したんだ。そして、日本一は西武。――それで、あなた、どちらさん?」
「あっ、失礼」
老人は少しあわてて、早口で言った。「福井です」
「あ、そう。フグ井さんね」
わざと間違えてやった。
(あんたには、河豚のほうがぴったりだぜ)
「フクイ。幸福のフクに井戸のイです」
老人は念を押すように、ゆっくりと言った。
「それで、どちらの福井さん?」
意地悪くつづけると、童顔にとまどった表情がうかび、小さな声で答えた。
「どちらって──個人タクシーをやっていますけど」
「あ、そう」
タクシーの運チャンにしては年を食っていると思ったが、話を打ち切るため、カウンターに向き直った。

残りわずかなボトルの中身を、グラスに注ぎ尽くし、ゆっくりと飲み干した。
束の間の幸せ感がよみがえる。
「それにしても、こんなところで遠山さんにお会いできるとは、すごくラッキーだな」
老人がふたたび話しかけてきた。
(俺にとってはアンラッキーだったよ、短小ジジイと出くわして)
今度は老人のほうを見ずに、独言のようにつぶやいた。
「過去は過去。現在の俺は平凡なサラリーマンだよ」
「でも、私にとって、今でもあなたはヒーローですよ」
そろそろいらだってきた。俺は小男をにらみつけた。
「それはよかった。ところで、あんたにひとつ忠告しておく。ひとり静かに酒を飲みたいと思っている人間には、あまり構わないことだ。さもないと、そのおいしそうなほっぺたを、噛みついちゃうぞ」
「俊ちゃん!」
マスターがたしなめた。
老人は驚いたように目を丸めたが、それでは威厳が損なわれると思ったのか、早口で言った。
「でも、あなたの飲みかたは無茶だよ。体に悪いですよ」
「ありがとう。わざわざ他人の体を心配してくれて」
俺はわざとらしく言った。
老人は気まずそうに目を逸らすと、口ごもった。
「べつに、私はただ──あなたが好きだったから──」
ふたたび過去形だ。
老人とのやりとりにうんざりしてきた。そろそろ引き上げる頃合だ。
スツールから腰を浮かすと、老人の後ろ姿を観察した。ちびの割には、肉付きのいい体だ。肉のたっぷりとついた尻が横に張りつめて、小さな丸椅子から大きくはみでている。
(この店に来るってことは、男漁りか)
俺は老人の丸っこい肩に手を置き、耳元でいかにも親密そうにつぶやいた。
「俺を誘っているのかい、爺さん?でも駄目だよ。俺の好みは、マスターのようなタイプなんでね」
老人はびっくりしたように腰を浮かしかけて、そこで動きをとめた。マスターが何か言いかけるのを、手を上げて制した。
「じゃあ、マスター、ごちそうさん」
離れぎわに老人の尻をピシャリと叩くと、乱暴に撫でまわしてやった。それから店を出た――かすかに右足を引き摺っているのを意識しながら。

予想通り、窓には明かりが点いていなかった。腕時計を見ると夜中の2時を回っている。
ポケットから鍵を取り出して玄関ドアを開け、家の中にはいった。室内は真っ暗だった。暗闇の中をふらつきながらリビングルームに入り、明かりを点けた。
見慣れた光景が目に入ったが、みょうに空々しく感じられた。ソファーやテーブルには雑誌類が散乱し、その上に熊のぬいぐるみが乗っかっている。
どれもひとり息子の啓介のものだ。
(男のくせに、まだぬいぐるみかよ)
悪態をついて、片手でソファーの上から邪魔ものを払いのけると、サイドボードからウイスキーボトルとグラスを取り出した。そのままストレートで口直しの一杯をやった。暖かいものが体中に蘇ってきた。もう一杯あおると、ふらつく足で2階にあがった。
暗闇の中で、女房が熟睡しているのが分かった。寝室の明かりは点けなかった。いくら酔っぱらっていても、睡眠中の女房に気を使う理性はまだ残っている。
暗がりの中を歩いて、自分のベッドに近づいた。それから着ている衣服を床に脱ぎ捨て、ベッドにもぐりこんだ。
隣のベッドから、女房の健やかな寝息がかすかに聞こえていた。その寝息を聞きながら、数分後には、俺も寝入っていた。
[17/06/30 08:03 神亀]
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