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■ グランパラダイス(下) - ……(8)
(8)

12月に入って急に肌寒くなった。
朝から空はどんよりと曇っていたが、篤志は散歩に出た。路地を抜けて、大通りを横切り、不忍池の広場に出る。
そこで一人の老人が太極拳をやっていた。篤志はその老人が、1億円で土地を売ったタバコ屋だと気付いた。確か名前は内田昭三だ。近くに引っ越してきたのだろう。
少し離れたベンチに腰かけて、しばらく眺めていた。
篤志より10歳ほど年上だろうか、中肉中背の均整のとれた肉体は、ほどよく脂がのって、いたって健康そうだ。
イチョウの鮮やかな黄色を背景に、ゆうゆうと太極拳をやる老人の姿は、それだけで絵になっていた。
スローモーションを見るように、ゆったりとした動きだった。大気を体内に取り入れながら伸びあがり、息を吐いて沈み込む。
大地に根付いた葦が風になびくように、しなやかに揺れる動きを見ていると、神楽を奉納する儀式のようにも思える。
篤志は、老人の演技に魅了された。足のつま先から手指の先まで、神経が行き届いているのが分かる。よほど長年続けていないと、こんな熟練の技はできないだろう。
しばらくして、老人の動きが静止した。どうやら終わったようだ。

篤志は近づいて、声をかけた。
「寒いのに、朝から精が出ますね」
老人は篤志の顔を認めて、丁寧にお辞儀した。
「その節は、大変お世話になりました」
「いえいえ、私はたいしたことはしていない。この近くに引っ越しされたのですか」
「ええ。ホウちゃんに勧められて、マンションを購入しました。部屋から不忍池と上野の森が眺められます」
礼儀正しい内田が、ホウちゃんなどとくだけた呼び方をするのはそぐわなかったが、芳桂がそう言わせているのだろう。
老人はいたって穏やかな顔をして、態度も物静かだが、なぜか不思議と篤志の心に情欲の火を点す。
この老人を裸に剥いて、じんわりと責め立てたら、どんな声を出して泣くのだろうか。
つい、あらぬことを考えてしまう。
そして思う。あんな軽薄な芳桂に取られるのなら、いっそのこと老人を、自分の屋敷に住まわせるのだった、と。
彼は別れ際に、内田老人に言った。
「じゃあ、そのうち、あなたのマンションを拝見させてください」

10時ごろ、右舞百八の床屋に行った。散髪が目的だが、店に住み込みで働いている華下満須夫の様子も見たかったのだ。
店に入ると先客がいた。半ば倒された椅子に寝そべる客の髭を、満須夫が剃っていた。目を閉じた客の顔を見ると、旧友の稚加良強だった。
この店で彼の姿を見るのは初めての気がしたが、それよりも別のことに目を奪われた。強のズボンの前が、内部から突き上げたように膨らんでいるのだ。
(いやらしい。いい年をして――)
百八が散髪を始めたとき、篤志はそっとささやいた。
「彼はこの店に来ていたのか?」
聞かれた百八は横の席を見て、小声で言った。
「あの方は、会長のお知り合いでしたか。このところ、2週続きで来られています」
(ははあ、ツヨの奴、満須夫を見て、女から宗旨替えしたか)

思い当たる節がある。
2週間前、稚加良強と鬼律忠司がアメリカから帰ってきた時、篤志の家に集まって報告会をした。そのとき、華下満須夫も呼んでいたのだ。
親の金が戻って喜ぶ若者に、強は不思議な生き物でも見るような目つきをしていた。
満須夫が帰ったあと、篤志は強に訊いた。
「どうだ、あの若いのは?」
「いや、なかなか――あんな青年もいるのだな」
「女好きのおまえでも、ぐっときたか」
「ああ――思わず押し倒して、吸い付きたくなったわ」
言ってから、強は声を上げて笑ったが、妙に照れ臭そうだった。
あれも今考えると、あながち冗談とも思えない。
百八に散髪してもらいながら横目でうかがうと、満須夫のほうも意識して、細い体を客に押し付けているように感じられる。
(この二人、もうデキてるのか?)
篤志は、なにか大切なものを奪われたような気がした。

人肌恋しい季節は、妙に感傷的な気分になることがある。とくに夜ともなると、その思いは強くなる。
姿を見せなくなって5年以上の歳月が経つのに、ふとした拍子に、高城健の面影が浮かんできて、無性に会いたくなる。
逞しい胸に抱かれた時の体臭。暖かい大きな手や熱く湿った唇の感触。そして耳に心地よい低くて優しい声音――。
それら健への思いがいちどきにやってきて、夜も眠れなくなる。
そんなときは、使用人の忠を寝室に呼んで、添い寝をさせる。
小柄なやわらかい体を背後から抱いて、温もりを感じていると、不思議に心が安らぐ。
乙な気分になったときは、布団にもぐりこませて、忠の柔らかい口に分身を含ませる。
たまに急激に高ぶることがある。そんなときは性急に、忠の尻を求める。
それでも昔のような激しさは無い。一体となった後は、先を急がず、じっくりと、心と体の交わりを堪能する。
愛したあと、忠の顔を両手ではさんで、うるんだ瞳を見ながらしみじみと言う。
「チュウ、おれより先に死んじゃ駄目だぞ」
「何をおっしゃいます、旦那さま――」
忠は顔をクシャクシャにして、篤志の胸にしがみつく。

――高城健への思い。――忠への思い。
篤志は、この自分の中の二面性が、まだ理解できていなかった。
逞しい男に貫かれて、心身ともに相手に委ねる受け身の悦び――。
可愛らしい肉体を組み敷いて、思うままに侵す征服の悦び――。
65歳にして篤志は、まだ迷っていた。

――◇――

「背信行為か?――大手不動産会社の変事」
12月の半ば、週刊毎朝から、センセーショナルな記事が書かれた号が発売された。
一部上場企業の日間梨産業内の不祥事として、H取締役の背信行為が具体的に書かれていた。H取締役は、創業者の直系の人間と紹介されていたので、日間梨梵とすぐ分かるものだった。
しかも、事件の証拠となる資料も入手していることを匂わせていた。
その情報の出所は、日間梨産業の元社員となっていた。一般読者には分からないが、日間梨産業内部の人間には、その元社員が華下満寿夫か烏合周平と推測するだろう。
もし華下満寿夫であるとするなら、会社上層部の人間は後ろめたい思いがあるので、腫物に触るようにそっとしておくだろう。
こんなことを見越して、篤志は、昔から交流のあった週刊毎朝の記者に情報を流したのだ。彼は、この週刊誌が発売される週、風邪を理由に会社を休んでいた。
さっそく監査室の真締から、週刊誌の件で電話があった。篤志は初耳のようにとぼけて、「その週刊誌を買って読んでみよう」と言って、電話を切った。
(さあて、会社は世論をどう見ているかだ)
彼は家でのんびりとしながら、さぞかし会社は蜂の巣をつついたような騒ぎだろう、と推測した。
とくに広報室は、株主や関係企業、取引銀行などの問い合わせに大わらわだろう。
また総務部は、次の株主総会のことを思って、戦々恐々としていることだろう。
御膳会長や江利戸社長は、どう対処するか。日間梨梵はどう動くか――。
興味は尽きないが、篤志はしばらく静観を決め込むことにした。
[17/05/27 19:12 神亀]
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