■ 風の新之輔第二部 - 第二部流浪の旅(二)
(二)
小さな集落だった。茅葺き屋根の家が、十数軒ほど散在している。その周りには、瑞々しい緑の田畑と小さな川の流れがある。
青い空と白い入道雲――村はまさに夏真っ盛りだった。
数人の子供たちが、土の広場を走り回っていた。子供たちは須佐之介の姿を見て、駆け寄ってきた。
「おとう、お土産は」
「今日は無しだ。むこうで遊んでいろ」
須佐之介は、相好を崩して子供の尻を叩いた。それから新之輔に顔を寄せて匂いを嗅ぎ、鼻に皺を寄せた。
「おぬし、家に入る前に、身綺麗にする必要があるな」
須佐之介は、外にいた中年の女に声をかけた。
「お咲、湯屋の用意をしてくれ。それから、この男の垢をこそぎ落としてやってくれ。鳥の巣のような髪と髭も切ってやれ」
「あいよ。また大きい人だねえ」
今度は別の女のところに行った。
「お梅、この男に着せる服を用意してくれ。下帯もだ。それから、今着ている服は棄ててくれ。臭くてかなわん」
「あいよ。きたない客人だねえ」
「口の悪い女だ。じゃあ、頼んだぞ」
女たちから離れると、新之輔は須佐之介に聞いた。
「女たちにあんなことを頼んでいいのか」
須佐之介はあっさりと答えた。
「なあに気にするな。ふたりともわしの女房だ」
「ふたりとも女房――?」
「がはははは」
須佐之介は豪快に笑うと、新之輔の肩をどしんと叩いた。「欲しかったら抱いても良いぞ」
「いや、拙者はそんな――」
新之輔はあわてた。女は、彼の唯一の弱点だった。べつに女が嫌いなわけではない。肉体が怖かったのだ。子供のとき、目の前で母と姉が男たちに凌辱され、殺された。
その恐怖の体験が、彼の脳裏に根強く残っていた。
湯屋に入る前に、お咲と呼ばれた女が、髪と髭(ひげ)を切ってくれた。女は宿場で、廻り髪結い(出張床屋)をやっていると言った。
屋外にある空樽に新之輔を腰掛けさせ、手際よく剃刀を使って、髪の長さを整えてくれた。髭はざっと切っただけで、あとは湯気で蒸したときに、きれいに剃ってあげると言う。
この当時、月代(さかやき)や髭の手入れは、一般的に毛抜きを使っていた。剃刀は中国から伝わってきて、当初は僧の剃髪の儀式に使う法具とされていた。高価な道具であり、まだ一般では流通していなかった。
「わたしのお宝だよ。旦那に貰ったのさ」
剃刀を珍しそうに見る新之輔に向かって、女は自慢げに言った。
そのあと新之輔は湯屋に入った。
一般に、湯屋を備えているのは、大身の家に限られていた。宿泊を商売とする旅籠でも、大きな店でしか備え付けていない。したがって、身体を洗うのは、もっぱら行水ですませるのが一般的だった。
そういった世の中だから、こんな寒村に湯屋があるのは非常に珍しいことだった。
屋外にある湯屋に戸惑いながら、新之輔は中に入った。
部屋は狭く、四畳半ほどの板張りの床の片隅に、小さな湯船が備え付けられ、熱湯が満たされている。その横には、水を入れた桶がある。
新之輔は下帯を外して、湯船の前に置かれた木の台に腰を落とした。女が洗い場との仕切りの板戸を閉めた。
わずか二畳ほどの薄暗い空間で、新之輔はじっとしていた。熱湯から湧き出る蒸気が、部屋の中に充満した。
新之輔はこれまで、川に浸かって身体を洗っていたが、温浴は久しぶりであった。暖かい湯気に蒸されて、体中の筋肉がぴきぴきと音を立てて、ほぐれていくような気がした。
そのうち全身から、脂汗がにじみ出てきた。それと共に毛穴や皮膚の表面から、垢や汚れが浮き出てくる。
四半刻(三十分)して、お咲が仕切りの戸を開けた。
女の姿を見て、新之輔はぎょっとした。
お咲は腰布だけを身につけていた。ほっそりとした身体つきだが、露わになった胸や太ももに、女らしい豊かさが溢れていた。
「さあ、こっちに来て。そこに腰掛けて」
言われる通り洗い場に移動して、木の腰かけに尻を落とすと、お咲が竹のヘラを使って背中や胸、腕などをこそぎだした。
垢が面白いように取れる。
「わあ、すごい垢ね」
お咲が感嘆の声をあげた。「はい、今度は立っておくれ」
「えっ、立つのか」
「恥ずかしいのかい。案外、初心だねえ」
そこまで言われれば、立ち上がらざるを得ない。新之輔が腰を上げると、お咲が嬌声をあげた。
「わあ、大きい。うちの旦那より立派だよ」
お咲は俄かに熱意を持って、新之輔の下半身を竹のヘラでこそぎだした。腹や尻、股関節から太もも、脚へと移る。
女の肉体は怖いが、微妙なところを刺激されて、男の道具が自然に反応する。それを横目で見ながら、お咲がため息をついた。
「立派だねえ。上反りのほれぼれする形だよ」
新之輔は目を閉じて、ひたすら恥ずかしさに耐えていた。
「はい、もう一度腰掛けておくれ」
お咲の声に、新之輔はすなおに腰を落とした。
「それにしても、あんた、戰にでも出たのかい。傷跡がたくさんあるね」
身体の傷を言われているのは分かっていたが、新之輔は黙っていた。
お咲は丁寧に、新之輔の頭を両手で揉みだした。古い頭皮が蝉の抜け殻のように浮かび上がる。それから剃刀を使って、髭をきれいに剃った。
「あんた、すごい男前じゃないか」
新之輔の素顔を見て、お咲が驚いたように言った。
お咲は湯船の湯を手桶で汲み、別に用意されている桶の水でぬるめて、新之輔の頭から湯をかけた。
垢を洗い落すと、今度は掌に晒しの布を巻きつけて、全身をこすりだした。
「あんたには特別だよ。赤ん坊の肌のようにしてあげる」
まだこんなに残っていたかと思うほど、灰色の垢がぼろ屑のように皮膚の表面に浮き出てくる。身体の隅々まで擦られ、揉まれ、その気持ち良さに、あちこちの筋肉が小躍りしているように震えた。
もはや新之輔の念頭からは、女の前で裸だという羞恥は、完全に拭い去られていた。
身も心もくつろいでいた。
仕上げに水で全身を清められ、固絞りのあたたかい布で、水気をていねいに拭き取ってくれた。
最後に髪を整えてくれた。お咲は、新之輔の総髪を麻の元結で束ね、一文字に結った髻(もとどり)にした。いかにも野趣あふれる髪形だ。
すべてが終わると、お咲は色っぽく言った。
「ねえ、あんた、ここでやってもいいんだよ」
お咲は新之輔の手を掴んで、腰布の隙間に導いた。
指の先が、ヌメッとした肉の裂け目に触れた。
「ひええーっ!」
新之輔はあわてて身を引いた。
「ひええ?」
お咲は新之輔の示した過激な反応に、呆気にとられていた。
いつ置いたのか、湯屋の入り口に紺の長着と下帯が折り畳んであった。
新之輔は下帯を締め、長着を身につけた。少し丈が短かったが、生地はしっかりしている。
湯屋を出ると、外気が気持ち良かった。生まれ変わったような気がする。
お梅と呼ばれた女が現れて、驚いたように新之輔の顔を見た。
「ええっ、あんたさっきの人かい。こんな男前だったの」
女は言って、新之輔を家に案内した。このあたりでは一番大きな構えの家だった。
土間から続く板の間に、囲炉裏が切ってあった。鉄鍋が掛けられ、味噌汁に色々の具材が入れられている。
「そこに座ってくつろいでおくれ。お酒を持ってくるから」
お梅は言って、姿を消した。
新之輔は囲炉裏の前に座ったが、奥の部屋の物音が気になっていた。明らかに男女の睦みあう濡れた音だった。
そのとき奥の襖がすこし開き、須佐之介の上気した顔が覗いた。
「おう、きれいになったようだな。わしはすぐ終わらせるから、先にやっていてくれ」
襖が閉められ、ふたたび睦みあう物音が聞こえだした。そのうち感に耐え切れぬ、女の泣き声が大きくなった。
なんとも開けっ広げと言うか、好色な男である。客を迎えておきながら、自分は隣室で男女の秘め事をやっているのだ。それも、お咲とお梅を女房だと言っておきながら、今は別の女を相手にしている。一体、何人の女房がいるのか。
ようやく須佐之介が現われた。下帯に半纏をひっかけただけの姿である。肉付きの良い胸や腹に、汗が光っている。
「女どもを喜ばせるのは、重労働だわ」
床にどっかりと座ると、須佐之介はぼやいて、新之輔の顔をまじまじと見た。「ほう、おぬしはそんな顔をしていたのか。なかなかいい顔だ」
ふたりは酒を酌み交わしながら、鉄鍋の中身をつついた。それまで満足な食事などしていなかった新之輔は、旺盛な食欲を見せた。それを須佐之介は、面白そうに見ている。
「おぬし、それが何の肉か知っているのか」
「ああ、これは鹿の肉だ。ほかに猪の肉もある。結構、うまい。味噌汁に入れると臭味が取れるんだな」
新之輔が答えると、須佐之介は豪快に笑った。
「がははは――おぬしは面白い奴だ」
この時代は仏教が普及して、かしわ(鶏肉)以外の肉食を禁忌にしていた。新之輔は昌造爺の影響で、小さいときから山で獲った猪などを食べていたので、獣肉を食べることに抵抗が無かった。
その獣肉が食材として使われているという意味では、須佐之介の食生活もかなり変わっていると言えよう。
大和須佐之介の本業は鍛冶屋だった。
出雲の国は古くから、鉄を生産することが盛んだった。踏鞴(たたら)を使って製鉄するのだが、須佐之介は焼き入れの技術を独自に開発して、切れ味が良く丈夫な鍬や鋤、鎌などを作っている。ときに、刀剣等の人を殺す道具の注文もあるようだ。
ところが、それだけでは食っていけぬ、と言う。
「なにしろ、女子供あわせて十三人いるんだ。わしは子供好きだが、さすがに子供十人となると、いささかうんざりしてくる」
(それは本人の責任であろう。なにも子供のほうで、生んでくれと頼んだわけではないだろうに)と思ったが、新之輔は黙っていた。
「それで、おぬし、わしと手を組まぬか」
須佐之介が持ちかけた。
「手を組むとは、どういうことだ」
「賞金稼ぎだ」
須佐之介の説明によれば、西のほうに石見銀山があるが、そこで採れる銀を狙って山賊どもが集まってくる。その山賊どもを退治すれば、銀山奉行より賞金が出る、と言うのだ。
「首をあげれば一分銀二枚、生きて捉えれば丁銀二枚だ」
須佐之介が言った。
一分銀四枚で、丁銀一枚に相当する。つまり殺すのと生かすのでは、四倍の賞金の差があるのだ。
「どうして生かす方が高いのだ」
新之輔が聞くと、須佐之介はこともなげに言った。
「それはお前、生きてれば一生、銀山で働かせられるじゃないか。もっとも銀山に入れば、過酷な労働で短命だとも聞いたが」
「――」
新之輔は、捕まる山賊どもが可哀相に思えてきた。