■ グランパラダイス(下) - ……(2)
(2)
タバコ屋の主人、内田昭三は、長袖シャツにトレーニングパンツ姿で、街の通りを歩いていた。背中には持病の薬と水筒の入った小さなリュックサックを担いでいる。
彼は健康のために、毎朝、歩いて15分ほどの公園に行き、長年続けている太極拳をやっていた。台湾の友人に教えられたものだが、その台湾人もすでに物故者となっている。
家に戻ると、まず浴室でシャワーを使って体を洗った。少し涼しくなったこの季節、散歩で汗をかくことはないが、彼にとってはひとつの習慣だった。
浴室から出ると、体の湿り気が無くなるまで乾布摩擦した。これを長年続けてきたおかげで、75歳の現在でも、肌は艶々としている。最後にフンドシを身につけた。
こざっぱりした服に着替えると、今度は朝食を作りだす。飯はすでに炊飯器をセットして炊き上がっているので、まず味噌汁を作る。それから鮭を焼く。これに焼き海苔と納豆、新鮮な青物野菜を添えれば、朝食の準備完了である。
ひとり住まいの昭三は、急ぐことは何もなかった。息子がひとりいるが、50歳でなお独身、現在はパリで自由気ままな生活を送っている。
長年住み慣れた狭い我が家の周辺は、いまや殺伐とした高層ビルに変貌している。
(せっかくこの場所から、移り住めると思ったのに――)
彼はフッと吐息をもらした。
あの男――尾知利のことを思うと、体の芯に疼きを覚えた。
ふらりとやって来て、何とない話をして、いつの間にか男色の世界に引きずり込まれていた。そして、土地取引の入れ知恵だった。
日間梨産業の社員には悪いことをした。望外の1億円で話がまとまったのに、尾知利のそそのかしに乗って、倍額の要求をしてしまった。
でも、欲張った罰はすぐやってきた。せっかくまとまりかけた土地売買が、白紙に戻ったのだ。
尾知利は「なあに、先方はやせ我慢しているだけ。そのうち折れてくるさ」と言ったが、会社からはそれ以後、何の音沙汰もなかった。
それに、尾知利自身も姿を見せなくなっていた。
昭三のもとに二人の男が訪ねてきたのは、その日の昼下がりだった。
60年配の背の高い紳士と、50年配の遊び人風の男。
年上の方が稚加良と名乗って、1枚の写真を見せてくれた。尾知利の写真だった。
「この男をご存じですね?」
稚加良の問いに、昭三は小さくうなずいて、逆に質問した。
「あのう、この人が、何かしたのでしょうか?」
「詐欺を働いた疑いがあるのです。雄士利輔という名前の男ですが、ほかに尾知利好蔵なんて、ふざけた偽名を使っている。まあ、老人を食い物にするごくつぶしですな」
(やっぱり――)
昭三は、即座に納得した。
(そうすると、この人たちは警察関係の人たちだろう)
彼は質問されるまま、土地の売買に絡んで、尾知利から色々と入り知恵されたことを、男たちに話した。
「それで、土地の取引は成立しなかったわけですね」
「ええ。欲をかいた罰が当たりました」
稚加良はしばらく考えている様子だったが、横にいる男を紹介して、昭三に言った。
「彼は槍田井と言います。ひょっとしたら、雄士利輔がまたここに来るかも知れませんから、しばらく彼をここに置いておきます。なあに、見た目チャラチャラしていますが、人並みの常識はありますから、ご安心ください」
槍田井と呼ばれた男が、目上の男になんか言いたそうな顔をしたが、礼儀正しく昭三に頭を下げた。
その日の経営企画室は、閑散としていた。課長以下、主だった社員たちは、東京湾岸にできた最新の商業施設を視察するため、出払っていたからだ。部屋に残っているのは、若手男子社員と事務担当の女子社員のみだった。
そこに仲間相談役が、ふらりと立ち寄った。
「お、なんだ、今日はみんな出かけているのか」
「はい。お台場の商業施設を見学に行きました」
男子社員が緊張して返事をした。
「そうか。外の物件を見学するのは、企画室にとっていいことだ」
篤志は部屋の中をぶらついて、空いた烏合課長の席にどっかりと腰を落とした。彼は整頓された机上を見た。
「ほう、仕事のできる社員の机は違うな。きれいに片付いている」
男子社員が相談役の軽口に、お愛想笑いをした。
篤志はそっと引き出しを探ってみた。一番下のファイルキャビネットの引き出しは、鍵が掛かっている。
そのとき、タイミング良く監査室長の真締が現れた。彼は事務的な口調で、男子社員に声をかけた。
「ちょっと資料を見せて欲しいのだけど」
真締はいくつかの項目を、男子社員に伝えた。
さっそく男子社員が、壁際のキャビネットから資料を探しだした。真締が女子社員に向かって言った。
「急いでいるんだ。きみも手伝ってくれる?」
企画室のふたりの目が逸れると、篤志は烏合課長の引き出しを探った。右上の引き出しの隅で小さなキーを見つけた。
(なんだ、おれと同じか。ま、誰しも考えることは同じだな)
キーを使って、下のキャビネットを開けた。いくつかの書類があり、茶色の大判封筒が目を引いた。彼はその封筒を取り出すと、社員たちの様子を窺いながら、中身を取り出した。
ビンゴ!書類に紛れて、華下満寿夫が提出したリポートの原本があった。
表紙に華下の自筆のサインまである。ページを拾うと、『重大な瑕疵』という項目があり、参考資料を添えた説明が詳細に記述されていた。
同封されたほかの資料もざっと目を通していると、興味を引くものが何枚か見つかった。数枚の伝票をコピーした資料だ。
篤志は、華下のリポートと伝票のコピーを残して、ほかの資料を封筒に戻し、キャビネットに鍵をかけた。
残した資料を慎重にスーツの下に隠し、真締に対応する社員ふたりを尻目に、部屋を出て行った。
真締忠義が相談役室に入ってくると、篤志はそれまで読んでいたリポートを手にして、ソファーの方に移動した。
「ご苦労さん。きみの演技も板についてきたな」
篤志がからかい半分に言うと、真締は恨めしそうに彼を見た。
「どうも、相談役とお付き合いしていますと、自分が自分でなくなっていくような気がします」
「そうかい、それだけ人間の幅が広くなったということだろう。ところで、これが烏合課長の机の中にあった。まず、目を通してご覧」
真締がひと通り目を通す間、篤志は辛抱強く待っていた。ざっと読み終わった真締が、驚いた表情で言った。
「やはり華下くんの言っていた通りでした。彼は最初から、重大な瑕疵に気づいていたのですね。でも烏合課長は、なぜこのリポートを表に出さなかったのでしょうか」
篤志は静かに言った。
「取締役の日間梨梵、経理部長の意地渉、経営企画室の烏合周平、それに謎の男、雄士利輔だ」
「みんな繋がっていると――」
「ああ。ただし、雄士利輔を知っているのは日間梨梵だけだろう。ほかに、総務部長の尾人良雄も、ひょっとしたら加担しているかも知れんが」
真締は少し考えて、ふと顔を上げた。
「でも、なぜこのリポートを処分しなかったのでしょうか?彼らにとっては、言い逃れのできない証拠品ですよ」
「おそらく、烏合は日間梨取締役を信用していないのだろう。自分が切り捨てられようとしたときの、切り札に使うつもりだ」
篤志は断言すると、噛んで含めるように言った。「いいか、この件は、しばらく二人だけの秘密にしておこう。それに、彼らもスパイ活動をやっているかも知れん。前に意地部長が私のデスクを探った形跡があるのだ。きみは私と一緒の行動が多い。だから、気を付けるんだ」
そして付け加えた。「辞めた華下くんには、私から話しておこう。彼に聞きたいこともあるからね」
そのころ、タバコ屋の主人、内田昭三はズボンを脱いで、敷布団の上にうつ伏せになり、心地よいマッサージに身を委ねていた。
店で待機することになった槍田井は、軽薄だが親切な男だった。彼はお年寄りにマッサージをしてやることが趣味だと言って、昭三に横になるように勧めたのだ。
足裏の壺から、足首、ふくらはぎへと、慣れた指が這いまわる。
「どない、ショウちゃん、気持ちええやろ」
槍田井が手を動かしながら、声をかけた。彼はすぐ昭三のことを、ショウちゃんと呼び出した。そして、自分のことは、ホウちゃんと呼ばせる。
少々軽いなと思ったが、これも今の流行だろうと思って、昭三は男の調子に合わせた。
ホウちゃんの指が太ももを揉みだした。
「わあ、めっちゃ逞しい。とても75歳の足と思えへん。ショウちゃん、なんかスポーツでもやっているの」
昭三が、毎朝散歩をしていると言うと、ホウちゃんは大げさに褒めちぎって、昭三も悪い気がしなかった。
ホウちゃんの手が這いあがって、尻を揉みだした。
「うわあ、ごっつい。おいどの肉も、まだまだたっぷりと付いとお。ショウちゃん、ほんとに75歳なの」
昭三は会話をするどころではなかった。尻を揉まれて、尾知利にオトコの刻印を押された部分が疼きだした。感じるツボを指がくくっと圧迫する。
「ああっ!」
昭三は思わず声をあげた。
「あれっ、いま、ああってゆうた?ショウちゃん、気持ちええの?」
器用な指が、尻の谷間にもぐりこんだ。
「ああっ!いや!――いや!」
「いやや、いややも、ええの内――」
ホウちゃんは節まわしを付けて唄い、ますます増長した指が、やわらかい肉の狭間でいやらしく蠢いた。