■ グランパラダイス(下) - ……(2)
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その後、さらに1週間が過ぎたが、尾知利好蔵なる人物の素性について、稚加良強からの連絡はなかった。
しかし、不審人物が社長邸の近辺をうろつくのは、ぱったりと止まった。
江利戸社長は心底ホッとしたようだ。わざわざ篤志の部屋まで来て礼を言ったが、篤志は「それは良かったですね」ととぼけていた。
稚加良強や屋久佐平次のことは、表に出したくなかった。
土地取引に絡む事件は、一件落着とまではいかないが、当面の不安要因は消えたので、もうひとつの気掛かりにとりかかった。経理部における、一連の不祥事だ。
半年ほど前、経理部にいた若手男子社員が、会社の金を1千5百万円横領した。
しかし、資産家の親が肩代わりして全額返済したので、その社員は刑事告訴されず、懲戒解雇だけで済んだ。
しかしその後、同じ経理部でふたたび大きな事件が発生した。ある商業系の不動産会社のM&Aをしたとき、重大な瑕疵を見落としていて、大きな損害を被ったのだ。
その責任を取って経理部長が更迭された。しかも相手会社の財務や資産の調査を担当していたのは、会社の金を横領した当の社員だった。
篤志は、真締のまとめたリポートをざっと読んで、なにかきな臭いものを感じた。第一印象を大切にしている篤志は、少し調べてみようと思ったのだ。
その日の午後、真締を部屋に呼んで、いくつか質問した。
「まず不祥事を起こした社員だが、1千5百万円もの大金を、いったい何に使ったのかね?」
「競馬に使ったと言っていました」
「ふむ、きみの顔をみていると、なにか納得していないみたいだな。この際だ、きみの印象でもいい、思ったことを全部話してくれ」
真締は、横領事件が起こったとき、その社員と直に会って、事情聴取をしていた。彼は、そのとき不審に思ったことを話し出した。
社員の名前は華下満須夫、28歳。有名私大を卒業して入社以来、ずっと経理部で働いていた。とくに財務分野に明るかったので、事件を起こすまでは、上司の信頼も厚かった。性格はおとなしく、真面目で、交友関係はほとんどない。
「とにかく、真面目そのものといった社員でした」
生真面目な真締が言うので、篤志は、思わずクスリと笑いたくなるのを押さえるのに、苦労した。
「私が不審に思ったのは、華下くんの競馬に対する知識が、ほとんど無いということです」
「どういうことだね?」
「競馬に1千5百万円もの金をつぎ込むくらいなら、相当の知識があってしかるべきでしょう。馬の名前とか、競馬レースの種類とか。ところが彼は、馬券の買い方さえも知らないようでした」
「ふーん、それはおかしいな。で、きみはそのことを、当の本人に質問したのか」
「ええ。でも華下くんは急に黙り込んで、とにかく競馬に使ったの一点張りでした」
「しかし、きみの報告書には、そのことに触れていないようだが」
「調査段階では書いていたのですが、簡潔にしろと指示が出て、その部分を削除しました。上層部は、全額返済されたので、ほかの社員たちの手前、事件を大げさにしたくないようでした」
「その上層部って、誰なんだね?」
「――日間梨取締役です。経理総務担当の重役ですから」
篤志は話題を変えた。
「大損害をこうむったM&Aのほうだが、このデューデリジェンスも華下が担当だったそうだね。でも、彼の上司も一緒にやっていたのだろう?」
「ええ、烏合課長が上司だったのですが、途中で経営企画室に転属しました」
「そのあとの上司は?」
「急の異動だったので、代わりの課長が補充できなくて、凡倉部長が兼務しました」
「じゃあ華下の仕事も、あまり細かくはチェックできていなかったな」
「ええ、華下くんは優秀な社員だったらしく、凡倉部長は全幅の信頼を置いて、仕事も任せきりだったようです」
「その優秀な社員が、事前調査で重大な瑕疵を見落としたわけだ」
「ええ、デューデリジェンスの報告書には、リスクになるようなことは全く書かれていませんでした」
「その華下が会社の金を使い込んだ時期と、M&Aのデューデリジェンスをやっていた時期の関係は?」
「ほぼ同時期だったようです。もっとも使い込みが発覚したのは、少し後でした」
「それで凡倉部長は更迭された――」
篤志はつぶやいて、真締がうなずいた。
「使い込み時の伝票偽装とデューデリジェンスの欠陥を見抜けなかったことで、責任をとらされました」
「後任の部長は誰だったかな」
「意地部長です。総務課長からの大栄進でした」
篤志はしばらく考え込んだ。それから、おもむろに言った。
「その華下くんって言ったか、私が直接会って話すことはできるか?」
真締は怪訝な表情をしたが、素直に返事をした。
「本人が承諾するかどうか分かりませんが――携帯の番号は聞いていますから、連絡を取ってみます」
その日の夕方、どういう風の吹き回しか、日間梨梵から電話があって、晩飯をどうかと言う。篤志は真締との打ち合わせで疲れていたが、この会社創始者の血を引く人物と話ができるいい機会だと快諾した。
1階の車寄せに行くと、総務部長の尾人良雄が社用車の横で待っていた。ネアカな性格とあんこがたの愛嬌のある体型から、宴会部長とあだ名されている、60歳くらいの男だ。
尾人は愛想の良い笑顔で頭を下げ、篤志のために車の後部ドアを開けた。
後部座席には、先に来た日間梨が座っていた。
長身スマートで、見るからに毛並みの良さそうな男だ。経理総務担当重役で、まだ50歳の若さだが、一種独特の威厳がそなわっている。
「お忙しいところ、ありがとうございます。今日は、総務の尾人も同席させていただきます」
日間梨が丁寧に挨拶し、当の尾人は前の座席に、でっぷりとした体を窮屈そうに押し込んでいた。
車は上野方面に向かった。着いたのは、昔、日間梨梵の父親が会長の時、篤志と梵が連れて行ってもらった、スッポン料理の料亭だった。まだ篤志が中堅社員の頃で、日間梨梵は新入社員だった。
スッポンの生血に赤ワインを入れた食前酒をうまそうに飲みながら、日間梨はゆったりとした口調で言った。
「ずっと以前、私の父に連れられてこの店に来たのを、覚えていますか」
「ああ、あなたのお父さんは、精のつく料理が好きだった。会長職は重責だと言ってね」
その実、当時の日間梨会長は、艶福家で知られていた。すでに60歳を超えていたが、いつも艶々とした肌をして精力に満ち溢れていた。おそらく面倒を見ている女も、ひとりだけではなかっただろう。
篤志は、苦手なスッポンの生血を我慢して、ちびりちびりと飲んだ。その様子を面白そうに見ながら、日間梨は言った。
「あの当時から父は、あなたのことを高く評価していました。将来は、会社を背負って立つ逸材だと」
そこでいたずらっぽく笑った。「それにしても、スッポン料理は元気が出ますね。もう、体が熱くなってきました」
言ったあと、日間梨は尾人のほうをちらりと見た。
篤志は(おやっ?)と思った。日間梨の目つきに、何か特別の思いを感じたのだ。
尾人は役員ふたりの会話に口を挟まず、会食の世話係に徹していた。しかし、日間梨に対する彼の態度は、まるで10歳年下の君主に使える従僕のようだった。
特別の話題もなく、スッポン鍋をつつきながらの世間話が続いた。
どうやら日間梨は、お近づきのつもりで食事に誘ったようだが、篤志はすこし違和感を覚えていた。
あれほど人を人とも思わない坊ちゃん気質の日間梨が、篤志を前にどことなく緊張しているのだ。それに会食も、彼から誘っておきながら、早く終わらせたいような雰囲気が伝わってきた。
燗をつけた酒が無くなって、尾人部長が床の間に置かれた電話で追加注文した。
むこう向きに腰をかがめて受話器を持つ彼の後姿は、たっぷりと肉の付いた尻が、大きく横に開いている。
その姿を日間梨がじっと見ている。それに気づき、篤志はふと思った。
(この二人、ひょっとして肉体関係を持っているのか――)