■ グランパラダイス(下) - 第4章 謎のいい男(1)
(1)
下葉組の件で、篤志が稚加良強に相談して1週間ほどが経ったころ、強から連絡があって、浅草まで同行することになった。
昼間は観光客で賑わっている浅草寺界隈の通りも、夕暮れ時になって、すこし落ち着きを取り戻していた。大通りから一歩中に入ると、常連客だけの秘密めいた店が明かりを灯し始めている。
ふたりはその中のひとつ、小ぢんまりとした料亭に入った。
店の奥で待っていたのは屋久佐平次――型枠会社の社長だ。強は屋久に調査を依頼し、その屋久は男華内組ルートを使って、下葉組の関係者に直接会っていた。
人払いした部屋で、3人は酒を酌み交わしながら話をした。
「屋久社長自ら調べていただいたとは、恐縮の至りだな」
篤志が言うと、佐平次は手を振った。
「いやいや、ほかならぬあなたの頼み事だ。何を差し置いても、私が動くのが筋だ。それに、こういった話は、誰にも任せたくないんでね」
佐平次は落ち着いた声音で言った。
3人は同じ年齢だが、佐平次が一番年長に見えた。顔の皺が多く、髪もすっかり白くなっている。
しかし、目に力があった。幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、ものごとに動じない強い光がある。がっちりした筋肉質の体にも、まだまだ壮年の覇気が感じられた。
佐平次は前置き抜きに、本題に入った。
「写真のふたりは、間違いなく下葉組の組員だった。組長が言うに、ある男に百万円で頼まれたそうだ。しばらく日間梨産業の社長邸のまわりをうろついてくれ。相手が不安がるだけでいい。危害を加えることだけは絶対に避けろ、という条件で」
「ふうん、無言のプレッシャーってわけか。かなり法律に詳しい奴だな。警察に捕まっても、言い逃れはなんとでもできる」
強が考え込んで言った。その横で、篤志は質問した。
「それで、頼んだ男とは、どんな人物なのだ」
「それが――組長も、男の素性はあまり知らないようだ」
佐平次は戸惑った表情を浮かべていた。「その男について、組長は話したくないようだったが、追及するとぽつぽつと話しだした」
彼は説明しづらそうに言った。
「――どうやら、組長は男好きのようだ。頼んだ男の名前は、尾知利好蔵。オカマバーで知り合って、これまで何度かこの男のために、汚れ仕事をやってきたようだ」
「なのに素性は分かっていないのか?」と強が訊いた。
「ああ、どうやらこの尾知利という男は、意図的に自分の素性を隠しているようだ。連絡するのはいつも男からで、しかも公衆電話を使うといった徹底ぶりだ。――でも、見た感じは話してくれた」
佐平次は考えながら、話をつづけた。
「なんでも、映画俳優かテレビタレントのようにいい男だそうだ。中背だが、スラリとして、いつも仕立てのいい高級服を着ている。だいぶ若作りしているが、歳は50前後じゃないか、と言っていた」
テレビタレントのようにいい男と聞いて、篤志はふと、ビル事業部の社員がタバコ屋で見かけたという男を思い出した。ひょっとして同じ人物だろうか。
篤志はその話をふたりにした。
ふたりは考え込んだ。
「ああ、その可能性はあるな。タバコ屋の土地が高く売れなかったので、腹いせにやったとかね――」
強が言いながら佐平次を見た。「その男の写真はあるのか?」
佐平次は首を振った。
「写真はない。組長の話では、写真を撮られることを極端に嫌がる男のようだ。一度、店で皆といるところを撮られたとき、怒ってすぐ消去させたそうだ」
「よほど用心深い男だな」と強。
「ああ、それだけ悪いことをやっているって証だな」
佐平次はうなずいて、最後にきっぱりと言った。「それはともかく、組長には、はっきりと伝えておいた。今後一切、日間梨産業のことに関わるな。これは男華内組の会長の言葉だ、と思ってくれと」
浅草の料亭を出たあと、家が同じ方面なので、篤志と強はタクシーを拾った。
車の中で、強が言った。
「男の件は、鉄男のほうで調べてもらおう。まあ、名前のほうは本名じゃないだろう」
「ああ、その男の素性が分かれば、背後関係も明らかになるかもしれん。でも、写真がなくてどこまで調べられるかだ」
篤志の言葉に、強はにんまりとした。
「ああ見えて、鉄男は頭が切れる。それに、警察の情報力は馬鹿にならんぞ。あ、それから――」
強は言いにくそうに言った。「先におれの家に寄ってくれ。今夜はお前が一緒だったということを、女房に見せておきたい。お前は信用されているからな」
浮気性だが、いかにも恐妻家らしい言葉だった。
強を自宅まで送ったあと、篤志はグランパラダイスに立ち寄った。
店の前に行くと、男が窓の外に立っていた。入ろうか入るまいか迷っている、そんな風情に見えた。
店のドアを開けるとき、ちらっと男の横顔が見えた。なんとなく見覚えがある顔だったが、名前は思い出せない。男はかなり大柄で、立派な体格をしている。篤志はさして気にも留めず、店の中に入った。
「あれっ、会長しゃん。今夜は浅草のほうに行くって言うてたやない」
入ってきた篤志の顔を見て、マスターが言った。
店には客がふたりきりで、いつもより静かだった。
「浅草の帰りだ。お前の顔を見たくなったから、ちょっと寄った」
「嘘ばっかり。会長しゃん、そぎゃん口先だけのことば言うてると、罰が当たるよ」
洋児は話の途中で、ドアの開く音に入り口を見た。その顔が驚きの表情に変わる。
つられて篤志が振り返ると、さきほど店の前にいた男だった。
「ミキちゃん――」
洋児はひとこと言って、あとの言葉が続かない。複雑な表情をしているが、目元が潤んでいた。そこで我に返って、男に空いた席を勧めた。おしぼりを出しながら、不思議そうに見ている篤志に、そっと言った。
「玉野神酒夫しゃん――」
(ああ――)
先ほど見たような顔だと思った謎が解けた。昔、活躍していたプロ野球選手だ。一流とまではいかないが、職人的なバッティング技術に定評があった。
それにしても、洋児と玉野の様子を見ていると、二人の間に何か特別の事情がありそうだ。
「ぬるめの燗でよかと?」と洋児が聞き、玉野はうなずいて「おでんも頼む」と言葉少なに言う。そして洋児は、おでんの種類も聞かずに、スジを2本、大根とコンニャクを皿に盛る。お互い気心の知れた間柄だとすぐ分かる。
(これは邪魔しないほうがいいな)
篤志は、焼酎の湯割りをぐっと飲み干すと、洋児に声をかけた。
「じゃあヨーちゃん、わたしは帰るよ」
「今、なんばしとるの?」
洋児は付き合い酒をしながら、神酒夫に訊いた。
「ノンプロのバッティングコーチ――そのほかだ」
神酒夫はボソリと言った。相変わらず口数が少ない。
「よくこん店が分かったね」
「ああ、カズに聞いた」
カズは昔からの飲み仲間で、何度かこの店に来たことがある。
(あれから10年か――)
洋児は、昔愛した男の顔を黙って見た。ここに来る前に、すでに飲んでいるのは顔つきでわかる。それに長い年月の不摂生は歴然としていた。かつては太めながら、がっちりと締まった身体つきをしていたが、今やふやけたように柔になっている。
それでも濃いまゆ毛や力のある瞳に、精悍だった面影は残っている。
今でもあのシーンは鮮烈に思い出すことが出来る。
神酒夫が38歳、引退試合のときだった。野球に興味は無かったが、そのとき神酒夫にチケットを貰って、初めて後楽園のドーム球場に行った。
その試合、最後の打席で、神酒夫は特大のホームランをかっ飛ばした。ゆうゆうとダイアモンドを一周する彼の姿を見ながら、洋児は身震いするような興奮を覚えたものだ。
しかし、引退した後の神酒夫は、ただの飲んだくれだった。彼は毎晩のように、浅草にある洋児の店にやって来た。店を閉めるまで飲み続け、そのあと洋児のアパートに泊まって、欲望の赴くままに交わった。
そのまま付き合いを続けていれば、洋児も駄目になっていただろう。でも、すぐ酒に逃げてしまう神酒夫の生き方は、容認できなかった。
それでも、洋児が心底幸せに感じるのは、神酒夫に抱かれているときだけだった。
風になびく灯火のように、心が揺れ動いた。
好きな男と怠惰に酒を飲み続けて、いっしょに駄目になっていく――そして早めにこの世ともおさらばする――それもいいかな、と思うときもあった。
そんなときだった、馴染みの客、仲間篤志が声を掛けてくれたのは。新しい店の話に、洋児は飛びついた。そして、神酒夫とはすっぱりと縁を切った。
(うちって冷たい男やろか)
今もって、後ろめたい気持ちがあった。
玉野神酒夫はぬる燗で5合ほど飲んだあと、そろそろ帰ると告げた。そして別れ際に「今度、フランスに行くことにした」と言った。
洋児はハッとした。それを告げるために、わざわざ店に寄ったのか。
「昔世話になった人が、フランスの野球チームの監督になった。その人が、おれをバッティングコーチとして呼んでくれた。まあ、おれは、見た通りの駄目人間だけど、最後のチャンスに賭けてみるよ」
50歳近くになって言葉の通じない国に行くのは、並大抵のことではない。しかも、たるんだ体を、一から鍛え直さなければならないだろう。
(本当に最後までやり通すことが出来るだろうか)
洋児は疑問に思ったが、神酒夫の手をしっかりと握って、熱っぽく言った。
「ミキちゃん、頑張って。陰ながら応援しとうけん」