■ グランパラダイス(上) - 第2章 それぞれの事情(1)
(1)
鬼律忠司は出かける前にシャワーを浴び、石鹸で体の隅々まで洗って身を清めた。
着ていく衣服も慎重に選んだ。白のカッターシャツに、お気に入りのピンクと濃紺のストライプのネクタイ。現役時代は特別な時にしか着なかった、オーダーメイドの黒のスーツ。ズボンは少々窮屈になっているが、見栄えとしては許容範囲だ。
彼は結婚して以来、荒川区町屋の一戸建てに住んでいるが、現在は独り身である。潔癖症の彼と何事にもルーズな女房では、末永く幸せというわけにはいかなかった。それに子供ができなかったことも、夫婦破綻の後押しをした。
忠司が高校教師を辞めた年、ふたりは別れた。いわゆる定年離婚である。
忠司本人は、女房と別れたことになんの未練もなかった。もともと男女のしがらみに、関心が薄かったからだ。
しかし、今回はそういうわけにいかない。なにしろ惚れた男との別れ話だ。簡単に、ハイそうですか、で済ますつもりはない。
だからと言って、ほかに何か解決策があるのかと問われれば、答えは出てこなかった。
家を出るときは、戦に出かける心境だった。
待ち合わせ場所の帝国ホテルは、町屋駅から千代田線に乗って日比谷駅で降りれば、歩いて行けるところにある。
彼は電車の中で、今日はどんな作戦でいこうか、とあれこれ思いをめぐらせた。この時、旧友の仲間篤志に姿を見られたのだが、彼は気付いていなかった。
大様坊也と知り合ったのは5年前、定年退職した年に行われた都立高校教師のОB会の席だった。たまたま同じテーブルで隣り合って、ともに元英語教師という共通の話題で気が合った。
そのうち、大様が妻に先立たれ、子供もいないので、独り住まいをしていると聞いて、同じような境遇がますますふたりの心を接近させた。
大様は、同じ年代にしては大柄な体格と、おっとり、のんびりとした性格をしていた。
彼は退職後、学習塾で英語の講師をやっていた。学者に浮世離れした人物は多いが、大様も世事に疎く人を疑うことを知らない性格の持ち主のようだ。
忠司はこの2歳年上のどことなく小林桂樹に似た男に、好意以上の感情を抱いた。それは自分でも理解できない、不思議な感情だった。
庇護してやりたい気持ち?それとも――。
次の週、ふたりは六義園で待ち合わせした。ОB会の席上で都立の庭園の話題が出て、お互い暇だから、ひとつずつ訪ねてみよう、ということになったのだ。
文化的香りのする日本庭園の中を、ふたりは言葉少なに散策した。それでもお互い、好きだという波長が感じ取れるのか、ときおり手が触れ合おうものなら、それこそ初心な少年のような恥じらいを見せた。
都立の庭園はぜんぶで9つある。いずれも名園と呼ばれる立派なものであるが、その半分ほどを見終わった頃、大様坊也は町屋にある忠司の自宅を訪問した。
そのとき初めて、ふたりは男の関係を結んだ。
それまで忠司は経験が無かった。しかし、インターネットによって、その方面の知識は豊富だった。そしてまた、その方面の行為をするときに必要な道具や備品も、通販によって買い揃えていた。
意外だったのは、初心と思われた坊也が、ほんの数度であったが、すでに肛門性交を経験していたことだ。坊也が高校教師を退職した年、長年文通していたアメリカの教師を訪ねて、ボストンに行った。そのとき、ホームステイした先の熟年教師に、男色行為を強要されたのだ。相手は性器が大きい白人だ、初体験は苦痛の連続だったと言う。
忠司と坊也は、行為に及ぶ前に、まず酒を飲んで恥じらう気持ちを拭い去ろうとした。
坊也は経験があるとは言え、男同士の愛の行為はうぶなふたりである。
あれやこれやと試行錯誤しつつ、ついには初結合に成功した。
勝気な性格から、忠司がタチをこなした。そして幸いなことに、坊也が初めて受け入れた外人に比べれば、忠司の逸物は小振りだった。それでも硬度、機能は、貫通するにじゅうぶんだった。
鬼律忠司61歳、大様坊也63歳のとき、老いらくの恋である。しかも、自分の気持ちに正直になっての男同士の愛である。
そのとき以来、ふたりは年配者らしく、抑制された愛情を育んでいった。そしてときおり、ベッドの上で燃え上がるような情熱に身を委ねた。
しかし、なにごとにも終わりがある。
大様坊也の様子がおかしいと気づいたのは、3ヶ月ほど前だった。どことなくよそよそしくなって、忠司の誘いを断るケースが増えてきた。
不審に思った忠司は、坊也を問い詰めた。
そして、思いがけない坊也の告白だった。20歳年下の男と付き合っている、というのだ。
忠司は煮え湯を飲まされた思いがした。これまで坊也と付き合っているとき、気の利かない彼に代わって、いつも忠司が経済的な面倒を見てきた。
でもそんなことは、坊也の無邪気な顔を見ていると、本気になって怒れなかった。
坊也の心変わりは簡単に受け入れる気持ちにならなかったが、相手の目の中に、もはや自分は映っていないのも悟っていた。
結局、坊也の費用持ちということで、手打ち式をすることになった。
新しい恋人を含めた3人で、ランチを食べるのだ。ディナーだと、別れたあとのふたりの痴態が目に浮かぶので、明るい時刻の会食にした。
レストランは忠司が予約した。帝国ホテルにあるフランス料理店。忠司と坊也が関係を結んだ頃、入った店だ。そのときは、恋に盲目状態で、食事代が高額であることも気にならなかった。
別れる儀式で篤志がその店を選んだのは、別にセンチメンタルな思いからではなかった。目の玉の飛び出るほど料金が高い店、という理由だけだった。それがせめてもの、意趣を晴らす手段だった。
今回のランチはシェフのお奨めセットメニューで、一人当たり1万6千円也。ワインも高級なものを別メニューで注文したかったが、生憎ワインはセット料金込みだった。
帝国ホテルに入って、予約したレストランに行くと、珍しく坊也が先に来て待っていた。その横には、ポパイのようなマッチョマンがかしこまっている。年齢40代半ば、ごつい体格のわりに顔つきは童顔だ。
ふたりはラフな服装をしていたが、忠司が正装でビシッと着こなして来たことに、とまどっているようだ。
男は椅子をがたつかせて立ち上がると、律儀に頭を下げた。
「阿礼須清です。よろしくお願いします」
(人の恋人を寝取っておいて、よろしくはないだろう。それに、あんたには二度と会うこともないよ)
忠司は思ったが、ふと面白いことに気付いた。
(あれすきよし――あれ、すきよ)そこで内心、ふき出した。(そらそうだろうな、いかにも好きそうな顔をしている)
そしてまた気づいた。マッチョのズボンの前が、モッコリと膨らんでいる。いかにも大きくて、若い活力に溢れていそうだ。
忠司は、嫉妬に近い感情を、無理やり押し込めた。
(おれより威勢の良いソーセージを、手に入れたってわけだ)
67歳になる坊也のでっぷりと肥った尻に、太い肉棒を打ち込む、マッチョの姿が目に浮かんだ。
食事は淡々と進んだ。最初は心配顔だった坊也も、少し安心したようだ。まるで新妻のようなウキウキ感が、彼から伝わってくる。
(67歳の新妻か――)
忠司は皮肉な思いで、ふたりを見た。
話はもっぱら忠司が質問し、阿礼須がぼそぼそと受け答えした。
それで大体、経緯はわかった。ふたりは同じ大学の出身で、大学のОB会で知り合った。その上、坊也が退職した高校で、阿礼須が体育教師をやっている、とくれば話もおおいに弾んだことだろう。
それにしても、こちらを見る阿礼須の目つきが気になった。まるで誘いをかけているようだ。いくら鈍い坊也でも、そのことには気づいているのか、温厚な表情にいくぶん影が差していた。
(相方のすぐ横で、ほかの男に秋波を送るとは――この二人、長くはもたないな)
忠司は思ったが、顔には出さなかった。
途中、阿礼須が席を立ってトイレに行った。その後ろ姿を見ると、いかつい肩のわりに、尻が女のように肉感的だ。ひょっとしたらウケもやっているんじゃないか、と思えるほどなまめかしい。
阿礼須がトイレから戻ってきたとき、忠司は言った。
「ちょっと急用を思い出した。これで失礼するよ」
「えっ、だってまだ、メインコースが出てないじゃない」
坊也があわてて言ったが、かまわず忠司は立ち上がった。
「残念だけど仕方がないな。じゃあ、ごゆっくり」
そして小声で言った。「お幸せに」
マッチョが名残惜しそうにこちらを見ているのを尻目に、忠司はレストランを後にした。
日比谷駅に行くと、ちょうど綾瀬方面行の電車が入ってきた。
電車に乗って、フッとため息を吐いた。
べつに急用など無かった。ただあれ以上、二人の幸せそうな顔を見ているのは辛かった。それにマッチョのバカ面は、およそ知性のかけらも無い。あんなのに坊也を取られたのかと思うと、歯がゆさを通り越して情けなくなった。
今頃は、食事も終わっているだろうか。勘定書を見たときのふたりの反応を想像して、少し溜飲を下げた。
(ま、坊也も、これで少しは現実の世界を思い知るだろう)
いきなり、ガンッという音がした。
びっくりして見ると、向かいのドアのそばに年配の男がふたりいる。見るからに悪ガキのような坊主頭の小男が、険悪な目つきで自分より大きな老人を睨みつけている。老人のほうは、今にも泣き出しそうな顔をして、連れをなだめようとしている。
(また、やっている)
偶然だが、忠司はその二人連れを知っていた。これまでも数回、グランパラダイスで見かけたことがある。そのときも坊主頭の男が威張りくさって、大柄な老人が生活に疲れきった古女房のように耐え忍んでいた。
忠司が見ているうちに、小さい男がもう一度、ドアを蹴った。
ガンッ!大きな音がして、まわりの乗客たちはそちらを見ているが、男と目を合わすのを避けている。
正義感の強い忠司は、さすがにいかんと思って、男に注意しようとした。
そのとき、電車が新御茶ノ水駅に滑り込んで、ドアが開いた。問題の二人連れは、その駅で降りた。
忠司はなんとなくホッとした。これまでも、いらぬお節介をして、相手に殴られ、目のまわりに青痣を作ったことがある。でも、それが彼の性分だから仕方なかった。