目 次
グランパラダイス(上) - ……(3)
(3)

床屋ですっきりすると、湯島駅で地下鉄に乗って、ひと駅先の根津駅で降りた。
根津は古い町である。大通りから中に入ると、古い街並みの風情が色濃く残っている。
篤志は御膳と会ったときの作戦を考えながら、石畳の通りを歩いていた。生垣のアジサイはすっかり陰をひそめ、代わって百日紅のピンクが自己主張を始めていた。
梅雨の名残を含んだ通りは、空気が生温かく、なんとなく物憂い気分になる。朝方の冷気が嘘のように、いまやじっとりと汗ばんでいる。

御膳会長の自宅は、駅から谷中の墓地に向かう途中にある。緑に囲まれた古い屋敷で、石と鋳物の寂れた門柱に風情がある。
最初、金曜日にも関わらず御膳が自宅にいると聞いたとき、篤志は戸惑った。
(会長は、自分と会うために、わざわざ会社を休んだのだろうか)
しかし、あとで人事担当の日和取締役に聞いたところでは、会長は毎日会社に出ているわけでもないらしい。
門のところで呼び鈴を押す。
中年のお手伝いらしい女が出てきて、旦那さまは庭のほうにいると言う。
「それなら直接、庭のほうに回ってみましょう」と篤志が言うと、女はちょっとためらった表情を見せたが、黙ってうなずいた。
玄関の脇から庭先に通じる小路を歩くと、女の微妙な表情の理由がわかった。
庭にビニールを膨らませた子供用のプールが置かれ、全裸の御膳がのんびりと水に浸かっている。小柄でシミのない色白の裸体が、陽光に輝いている。
なんとも浮世離れした光景である。御膳は手で水をすくい、胸やわき腹をこすっている。チャプチャプとした音が、なにやら艶っぽい音に聞こえる。

御膳が篤志に気付いて、片手をあげた。
「よう、来たか。暑いときは水浴びに限るな」
言ったあと、水の中で立ち上がった。すんなりとしたきれいな裸体だった。灰色がかった薄い陰毛の中から、小振りだが形の良い逸物が、しずくを垂らしている。
その光景は目の保養になったが、篤志はあわてて目を逸らす振りをした。なにしろ御膳はノンケだし、篤志が男好きだということは、ひた隠しにしている。
「おい、ちょっとタオルを取ってくれ」
御膳の声が聞こえた。どことなく、揶揄しているような響きがある。
縁側に置かれたバスタオルを取って渡すと、御膳は前を隠しもせず、タオルでゆうゆうと体を拭いた。とくに陰部はていねいに拭いている。まるで見せびらかすような仕草だ。
「孫たちが来るのに備えて、女房が買ったんだ。その前にわたしが実験台だ」
御膳はビニールのプールを見下ろしながら言い、篤志はあいまいに微笑んだ。すぐ目の前にある形の良い逸物を見ていると、つい口に含んでみたいという誘惑に駆られる。
ぷりっと肉が詰まって、清潔そうで、まだまだ現役の覇気を潜ませている。
彼の思いも知らず、御膳は水から出て、縁側に向かった。ぷるんとした小振りの白い尻がかわいらしい。
御膳はバスタオルを置いて、代わってフンドシを手にした。
(ほう、会長もフンドシを使っているんだ)
器用な手つきでフンドシを身に着ける御膳の姿を見ながら、篤志はなんとなく親近感を覚えた。

「どうだ、気持ちは固まったか?」
御膳は時間を無駄にせず、単刀直入に聞いてきた。半袖のポロシャツと綿のスラックスに着替えた彼は、すっきりとした表情をしている。
篤志は向かいのソファーに腰を落として、すぐには返事をせず、室内を見渡した。壁の片面には分厚い書籍がぎっちりと並んで、御膳の教養の深さをうかがわせる。
「懐かしいです。この応接間に入ったのは、10年前でしょうか。あの時はたしか、根津神社のつつじ祭りを見た帰りでした」
「ああ、きみが取締役になったときだ」
御膳は記憶の確かなところを見せると、本来の話題に戻した。「それで、相談役を引き受けるのだな」
篤志は腹を決めると、これまで考え抜いたことを言った。
「お返事する前に、今回の人事の裏をお聞かせ願えますか」
「なんだ、裏ってのは?――裏なんてないぞ」
御膳は憮然とした声で言った。
篤志は会長の言葉を鵜呑みにしなかった。相談役なんて過去の会社組織の遺物だ。社長か会長経験者が退職する前の暫定的役職――隠居部屋。そんな風に思っていた。
(それを、なんでおれがやるんだ?)
「いやか?」
篤志が黙っているものだから、とうとう御膳は脅しに出た。「きみは、わたしの顔をつぶして、断るというのだな?」
篤志は慌てなかった。相手は海千山千のネズミだ。彼は落ち着き払って言った。
「断るとは言ってません。でも、会長、脅しはききませんよ。わたしはそのへんの洟垂れ小僧じゃないんです」
怒ると思いきや、御膳はニヤリとした。
「タヌキめ。やはりお前は、一筋縄ではいかんな。よし、裏の話を聞かせてやる」

――最近、日間梨産業内でなにかと不祥事が増えてきた。賃貸オフィスビルのトラブルや土地取引に絡む事件、経理社員による使い込み、M&Aの調査ミス――。その背景には、日間梨産業の創始者の血を引く、日間梨梵の台頭があると言う。
篤志は話を聞いていて、会社が混乱状態にあるのも分かる気がした。
日間梨梵は有名私大出の頭の切れる50男で、今は経理総務担当重役をやっている。毛並みの良さに加えて、長身スマートで見栄えも良い。
ただし、坊ちゃん気質丸出しだった。我儘かつ癇癪持ちで、人の事情を斟酌しないで強引に仕事を進めていくところがある。
それでも彼を将来の社長と見て、取り巻きの社員たちもかなり多い。
それに対して、今の社長の江利戸薫は、欠点はないが特に秀でたところもないという平凡な男だった。篤志自身も内心、この男が社長になったのか、と驚いたものである。そんな江利戸だから、日間梨梵を抑え切れるはずがない。

最後に、御膳は言った。
「そんなわけで、きみに相談役になってもらって、そのへんのいびつな関係を修復してもらいたい。きみは誰に対しても、直言で鳴らしていたからな」
篤志は聞いていて、うんざりした。この歳になって、面倒なことは嫌だった。
「そんなことなら、私でなくても優秀な役員はいるでしょう。何母専務なんかどうですか?」
「何母は駄目だ。何もせんし、きみのような老獪さがない。それにほかの役員も、肝っ玉が細いのばかりだ」
言ったあと、御膳は声に出して笑った。
(笑っている場合でもあるまいに――)
篤志は思ったが、表情を変えずに、奥の手を出した。
「だったら、会長が表に出られたらどうなんですか?」
途端、御膳は胸に手をやった。篤志は、最前から会長がたびたび胸をさすっているのに気づいていたが、素知らぬ顔をしていた。それでも、これ見よがしに胸を触るので、声をかけざるを得なかった。
「会長、胸でも痛いのですか?」
案の定、御膳は何気ない口調で言う。
「なあに、持病の狭心症だ。歳を取ると、ひどくなってくるのは仕方がない」
そして、少し物悲しそうな顔つきをして微笑む。
「それはいけませんな、養生をしないと」
篤志は言ったが、あまり真実味がこもっていない。頭の中では、昔のある出来事を思い出していた。

彼が総務部長のときだった。当時、労働争議が激しさをきわめ、スト突入の寸前までいっていた。最後の労使話し合いの直前、篤志は担当役員の御膳と打ち合わせをした。そのとき御膳は、ふっとつぶやいた。「泣くしかないか」と。
やがて労使話し合いの場。案の定、組合側の要求は強硬だった。
そのとき突然、御膳は社員たちの前で土下座した。そして泣きながら訴えたのだ。
「大変申し訳ない――社員の皆さんにはご苦労ばかりさせて――これも経営陣がふがいないばかりに――でも会社のためだ――どうかストだけは取りやめて欲しい」
社員たちはびっくりしたが、横にいた篤志も驚いた。会社重役が、本当に涙を浮かべて、懇願しているのだ。
そしてついに、組合委員長は折れた。そのとき御膳は、今のように苦しそうに胸をさすり、組合委員長は「重役、大丈夫ですか?」と心配そうに聞いていた。
会議の後、部屋に戻ると、御膳は泣いたことなどケロリと忘れたかのように、ジョークを交えて談笑していた。

すっかり疲れ切って、篤志は御膳の屋敷を退出した。割り切れないものを感じていたが、結局、相談役の仕事を受けざるを得なかった。これまでもそうだったが、また今回も御膳の軍門に下ったのだ。
(ま、いいか。会長の裸を見れたのだから)
彼は思いがけない幸運を、頭の中で反芻した。高齢とは思えない健康そうな肉体。形の良い逸物。かわいらしい尻。
(ひょっとして――)
篤志はハッと足を止めた。
(裸を見せたことも、会長の作戦?!)
もしそうだとしたら、御膳は、篤志が男好きだということを知っていることになる。まさかと思ったが、煮ても焼いても食えぬ御膳のことだ。
(これは一杯食わされたか)
彼はあきらめたように肩をすくめると、根津駅への歩を速めた。

電車に乗った途端、同じ車両に見知った顔を見つけた。
鬼律忠司――高校時代のクラス仲間で、高校の英語教師になった男だ。今はリタイアして、ときどきグランパラダイスにも顔を見せる。中肉、やや背が低く、昔、中条静夫という俳優がいたが、それに良く似た風貌をしている。篤志は忠司と性的な関係はなかったが、彼が男好きだということは、なんとなく感じていた。
それにしても忠司の様子は、なにやら思いつめた雰囲気があった。吊革に掴まり窓の一点をじっと見ている。それに身なりも、黒いスーツをビシッと着こなし、どこかの公式行事にでも出席する出で立ちだ。
(まるで赤穂浪士の討ち入りだな)
旧友の近寄りがたい雰囲気に、篤志は肩をすくめて、声をかけるのを取りやめた。
[17/05/06 06:52 神亀]
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