■ グランパラダイス(上) - 第1章 タヌキとネズミ(1)
(1)
目が覚めたときは、まだ薄暗かった。次に気づいたのは、自分が裸だということだ。尿意を覚えたが、けだるくて、起き上がるのが億劫だ。この傾向は、歳を取ってくるとますます顕著になってきた。
尻に何か当たっている。後ろ手に探ると、グンニャリとした物体。
そこで思い出した。
昨夜はさんざん飲んで、そのまま2階に上がって店のマスターと寝たのだ。
(チンポを入れたまま眠るなって、言ってるのに)
ぶつくさ言いながら、思い切ってベッドから出た。すでに7月に入っているのに、ゾクッとするほど肌寒い。
店のマスター、津間洋児が口をあけて、夢世界をさまよっている。一瞬、いたずらして、開いた口に何か突っ込んでやろうかと思った。
裸のまま部屋を出て、トイレに入った。
久しぶりのまぐわいで、体の節々が痛い。寒さに縮こまった逸物を摘んで、小便をした。カリの発達した、図太い、立派な逸物である。
チロチロとした流れが、じょじょに勢いを増す。気持ち良いひとときだ。しずくを切ったあと、便座を下ろして腰掛けた。尻穴がムズムズする。いきむと、白濁したエキスが滲み出た。
篤志は顔をしかめた。
(あいつ、中出ししたのか)
ウォシュレットのスイッチを入れた。水が菊座にあたる心地良い刺激に、しばしうっとりとする。
仲間篤志は65歳になる。
グランパラダイスのオーナーである。
中背太り気味、若い頃ラグビーで鍛えた肉体は、筋肉に代わってすっかり脂肪の層で覆われているが、太い腰周りや肉の厚い臀部に、往年の名残が見られる。
62歳の時、長年勤めていた会社を辞めた。退職時の肩書は、常務取締役である。
今は悠々自適の生活を送っている。
グランパラダイスのある土地と建物は、父親から相続した財産のひとつだった。それを、篤志がまだ会社勤めしているとき、バーに改装して副業を始めた。実際には、唯一の従業員である津間洋児がすべてを切り盛りしていたので、篤志のすることはせいぜい、ほかの仲間を誘って店に飲みに来て、売り上げ協力することくらいだった。
マスターの津間洋児との縁は、かなり長い。
浅草のゲイバーで働いていた洋児を、グランパラダイスの開業に誘ったのが始まりだ。
「貸していた喫茶店が店じまいした。ヨーちゃん、その気があるなら、店をやってみないか」――開店資金は篤志が出す。店の運営は洋児に任せる。条件があるとすれば、爺さん向けの店をやること。それ以外は、いっさい口出ししない。
この条件に、フケ専の洋児は一も二もなく飛びついた。
そして始めてみると意外にも、洋児は堅実な店の経営をした。一度店にやってきた客は、すぐ贔屓の客になった。客あしらいはもともとうまかったが、酒や食材の仕入れ、金勘定でも予想外の才能を発揮した。
篤志は道楽のつもりで店を開いたので、経営は赤字が続かなければ良い、くらいに思っていた。ところが洋児は、半年ほどで黒字転換まで持っていった。もちろん家賃地代は計算外なので、もうけはたいしたことないが、小遣い程度の配当は篤志にも回ってきた。
洋児は、夕方から夜にかけて下の店で働き、あとの生活の拠点は、上の部屋にしていた。店で飲んだあと、篤志がたまに2階に泊って、その夜は親密なひとときを過ごしたが、それ以外はお互いのプライバシーを尊重していた。
トイレから戻ると、目を覚ました洋児が向こう向きに、服を着ようとしているところだった。むき出しの丸っこい尻がかわいらしい。
「ようやくお目覚めか、ヨーちゃん」
「まだ5時半とよ。まるっきし、会長しゃんは朝が早いけん、かなわんなあ」
洋児は、博多弁丸出しでぶつくさ言った。
親しい人たちは皆、篤志のことを会長と呼んでいる。篤志が会社を辞めた時、彼の重厚な顔立ちや落ち着いた物腰から、いくつかの団体の会長に祭り上げられた。そんなことから、会長と呼ばれているのだ。
振り返った洋児は、篤志の裸に気づいて嬌声をあげた。
「ワオ、会長しゃん、ワイルドな格好!スッポンポン、万歳!」
そう言う洋児もアンダーシャツだけ。シャツの裾から逸物がダランとぶら下がっている。
津間洋児は60歳になるが、10歳は若く見える。生まれは福岡、世間でいう九州男児のイメージとはほど遠い。やや面長の繊細な顔立ちで、男前と言うよりは歌舞伎役者の女形のような雰囲気がある。中背スリムな肉体は、色白、体毛が薄いこともあって、ウケ専門だと思われがちだが、タチ役も立派にこなせる。
名前から、アレも爪楊枝だろうとからかう客もいるが、爪楊枝どころか、ズル剥けカリ高の立派な逸物を持っている。
ふたりが知り合った頃は、もっぱら篤志がタチをこなしていたが、今や形勢逆転して、篤志が受けることのほうが多い。それでも篤志は知っていた。洋児は元来ウケ志向で、相手が篤志以外なら、おそらくウケに徹しているのだろう。
「会長しゃん、今日のご予定は?」
服を着たあと、洋児の問いかけに、篤志は怪訝な表情をした。
「いやだな、今日は月末の金曜日とよ。会長しゃん、予定のなかんなら、ちょー店ば手伝っち欲しいっちゃけど」
洋児が訳を説明した。
「ああ――」
篤志はうなずいた。毎月最後の金曜日は店のサービスデーとして、飲み食い半額にしている。そのため、今日はいつもより、客の入りが多いことが予想される。
「今日の予定はと――」
言いかけて篤志は、大切な要件を思い出し、ひとりごちた。
「さて、どうしたものか――」
「会長しゃん、なんか気がかりなこつばってん?」
「いや、なに、ちょっと迷っているのだ」
「会長しゃんが迷うなんち、珍しいこつのあるけんね」
洋児が、からかい半分に言った。
「じつは前の会社から、戻ってくれんかと要請があったのだ」
「――?」
洋児は、ハトが豆鉄砲をくったような表情をした。その顔を見ながら、篤志は思考を巡らせた。
――◇――
「一度、会社にお越し頂けないでしょうか」
日間梨産業の人事担当重役から電話があったのは、月曜日のことだった。
それから2日後、篤志は日和という名の重役と会っていた。篤志が常務取締役をやっていた頃は、総務部長だった人間だ。
日和はへりくだった態度で、会社側の要請を伝えた。篤志に、相談役になってくれと言うのだ。
「でも、きみ、わたしは一度、日間梨を退職した人間だよ。そのわたしが、なんで相談役になるんだね?」
担当重役の話を聞き終わった篤志は、当然と思える疑問を口にした。
それに対する日和の答えは、経験豊富な篤志に経営上のアドバイスをいただきたいため、と言うだけで、およそ納得のいくものではなかった。
説明するのに困り切った相手の顔を見ながら、篤志は裏に何かあるなと思ったが、この重役からこれ以上事情を引き出すのは無理だと悟った。おそらく日和も、裏の事情は知らされていないのだろう。と言うことは、今回の発信源はもっと上、社長か会長だろう。
篤志は何食わぬ顔で、日和に訊いた。
「江利戸社長は今日、おられるの?」
「いえ、今日は大阪にご出張です」
「そう。じゃあ、御膳会長は?」
一瞬、日和の目が泳いだが、彼は落ち着いた声で答えた。
「はい、会長はおられます」
それで十分だった。これで御膳会長が、裏で糸を引いている確率が高くなった。
返事は1週間後ということで、人事担当重役と別れたあと、御膳会長の部屋に寄った。
御膳根津巳はすでに69歳になるが、まだ会長をやっていた。一部上場企業の会長職は、けっこうハードスケジュールである。それを70近くになってこなすのは、よほど心身ともに壮健な証拠だ。また、それだけ、社内における存在感が大きいということでもある。篤志も御膳の下で働いた経験があるので、この人物の偉大さは十分認識していた。
篤志は誰に対しても物怖じしない性格をしていたが、唯一、この4歳年上の御膳の前ではいつも緊張した。
そして今、彼は御膳の前で、かしこまって挨拶していた。
「御無沙汰しております。今日は、日和取締役に呼ばれまして――」
「おう、聞いているぞ。こんど相談役になるそうだな」
御膳はいつものざっくばらんな態度で言った。
「いえ、まだ何とも返事をしていません」
篤志が答えると、御膳はあっさりと言った。
「そうか。まあ、じっくりと考えてみることだ」
御膳は小柄だが、きびきびした元気のよい老人である。白髪、品のよい顔立ちをして、いたずらっ子のような小さな目が、生き生きと輝いている。
一般的に企業の社員たちは、上役に対して陰であだ名を付けたがる。篤志は大タヌキだったが、御膳はハツカネズミとあだ名されている。
篤志タヌキはなんとか今回の人事の背景を探ろうとしたが、御膳ネズミはのらりくらりと逃げて、なかなか尻尾を掴ませない。
「――どうも最近、記憶力に自信が持てなくなりまして。そんなわたしで、相談役が務まるでしょうか」
「大丈夫だよ、きみ。記憶力が薄れても、逆に理解力や応用問題の対応力は高い。それに、きみは今、人生のフィナーレを迎えようとしているのじゃなく、老年期の新たなスタートを切ったんだ。人生は常に進行形。老いてますます盛んだよ」
海千山千の腹の探り合いでは、とうてい会長にかなわない。このあたりは篤志が現役の時から見てきたので、本音を聞けなかったからといって、とくに失望もしなかった。
「じゃあ、いい返事を待ってるぞ」
別れ際に、御膳会長は満面の笑みで、篤志を部屋から送り出した。それから何気ない口調で付け加えた。「わたしの顔をつぶすなよ」
「えっ?」
篤志がハッとしたときには、ドアは閉まっていた。でも納得した。やはり今回の人事は御膳の差し金だ、と。