目 次
風の新之輔第一部 - 第一部豊の国(九)
(九)

月明りがあって海は凪いでいたが、油断はできない。
豊後灘(ぶんごなだ)は、航海が困難な海域のひとつとされている。豊富な魚類の回遊路になっているだけに、潮の流れが速いのだ。ましてや、近海漁業に使われる小さな舟である。大きな波を横腹に食らえば、ひとたまりもない。
櫂を操る権太は、がっしりした体格の無口な中年男である。腕は確かのようで、ひと漕ぎひと漕ぎ、着実に水を捉えている。
舟はいったん豊後灘を北東方向に進んだ。それから大きく湾曲して、北西に方向転換し、周防灘(すおうなだ)に入った。
ここから北に向かうと、海の最大の難所に入っていく。つまり豊前の国と長門の国の境にある、大瀬戸と呼ばれる海峡(関門海峡)である。
この海峡の長門側に、下関港がある。岩礁が多く危険な海域なので、下関港では水先案内船を備え、大型船を誘導している。
この水路の中で最も狭いのは、壇ノ浦と和布刈(めかり)に挟まれたところである。早鞆(はやとも)の瀬戸と呼ばれ、とくに潮流が激しく、潮の満ち干に応じて渦を巻いている。
その昔、壇ノ浦の合戦で多くの平家が、海の藻屑と消えたところである。
さすがに権太は汗みどろになっていた。櫂をめまぐるしく操作して、舟の向きを小刻みに修正しつつ、着実に通り抜けて行く。
少し落ち着いたところで、権太が声をかけた。
「もうすぐ港に入ります。その前に、むこうを御覧なせえ。あれが船島ですだ」
小さな島が浮かんでいた。船島(巌流島)は、四十年ほど前、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した有名な島である。
隣国で起きたこの話は、豊後にも伝わっていて、新之輔は思わぬところで目にすることができて感動した。

権太は、港の外れの目立たない浜に、舟を着けた。その頃には、空が白み始めていた。
昌造は丁銀を権太に渡しながら言った。
「ほら、約束の残りだ。ところで権太はこれからどこに行くんだ」
「女のところです。おらの子供もいる」
「じゃあ、連絡が取れるようにしておいてくれ。また、お前の舟を借りるかも知れん」
「用があれば町の外れにある、お香の店って飲み屋に来てくだせえ」
言ったあと権太は、町のほうに歩き去った。
権太と別れると、三人は浜から松林に入ったところで休憩した。昨夜から一睡もしていない。彼らは柔らかい砂地を見つけて、仮眠をとった。

五つ半(九時)頃、芳美と昌造は港に行って、廻船の情報をさぐった。昌造は医師お付きの小者ということにした。
まず西廻り海運の出店に行った。
「筑前で町医師をやっていた者ですが、故あって大坂に参ることになりました。廻船に乗せていただきたい」
芳美が用意していた言葉を告げると、応対に出た若い男は、「乗せるのは荷だけで、人を乗せることはできませぬ」とにべもない返事だった。
そのとき、奥にいた年配の男が立ちあがって、こちらにやって来た。左足を少しひきずっている。
「医師どのか。ならばちょっと診てくれぬか」
「左足を痛めましたかな」
芳美が訊くと、男は驚いたように言った。
「良くお分かりで――。じつは三日前に階段から落ちて、左の尻を強く打ちました。その痛みは日が経つにつれ、だんだんひどくなってきました」
男は番頭の半兵衛と名乗った。美食に慣れきっているのか、でっぷりと肥っている。
芳美は部屋に上がって診察した。
まず男をうつ伏せにして、触診した。肉付きの良い臀だった。触れる箇所によって、男が痛そうに「あっ」と声をあげる。
「どうやら左側の関節が少しずれているようです」
「このあとどうなりますか」
「放置しておれば、歩くたびに痛み、座ることもできなくなるでしょう」
「それは困る」
半兵衛は顔をしかめた。「なんとかなりませぬか」
芳美は男に向かって言った。
「では関節をもとに戻してさしあげましょう。腰帯を解いて、うつ伏せになってください」

うつ伏せになった半兵衛の着物をまくり上げ、下半身をむき出しにすると、尻肉の下から股間にかけて手を差し入れ、筋肉をほぐしはじめた。
「あっ、そ、そのようなところを――」
半兵衛は慌てふためいて、顔を赤らめた。
「動かないで。まず、周りの筋をゆるめるのです」
芳美は言って、男の柔らかい肉を揉み続けた。
しばらくして、次の指示を出した。
「今度は仰向けになってください」
男が仰向けになると、むき出しになった左太ももを横に開いた。下帯が緩んだが、そのまま股関節を平たくするように押した。
「つっ――痛い」
「さあ、息を吐いて――息を吸って」
股関節を圧し、緩めた。
男の肉付きのよい顔一面に、油汗が浮かんでいる。それでも、何を思っているのか、緩んだ下帯を突き上げてへのこを生やしていた。
芳美は、股関節への圧迫を何度か繰り返して、最後に言った。
「さあ、ゆっくりと手をついて起き上がってください。」
半兵衛が恐る恐る立ち上がった。それから少し歩いた。彼は感動した声をあげた。
「おお、痛みは消えています」

その日の夕方、新之輔たち三人は旅籠に泊まった。
夕餉のとき、久しぶりに酒を飲んだ。そのあと、これからのことを打合せした。昌造がもっぱら話していた。
「小壺どのは、おひとりで船に乗ってください」
今日の昼、西廻り海運の番頭の治療をしてやったことで、芳美だけは大坂まで船に乗ることが許されたのだ。
「新之輔さまと手前は、明日の未明に、権太の舟で海から廻船に近づき、密かに乗り込みます。権太には昼に会って、話を付けておきました」
「かなり大きな船ですよ。乗り込むことができますか」
芳美が心配して言って、昌造が安心させるように微笑んだ。
「船の錨綱を伝って登ります。新之輔さま、大丈夫ですね」
「大丈夫だ」
新之輔が肩の関節をまわしながら言った。

翌朝の七つ半(午前5時)――。
「では芳美どの、拙者たちは先に行きます」
「はい、おふたりとも、お気をつけて」
新之輔と昌造は支度を整えると、宿を出て行った。

昨日、浜に上がった場所に行くと、舟はあったが権太の姿は見当たらない。
そのとき、松の木陰から声が聞こえた。
「船頭ならいないぞ」
三人の男たちだった。浪人風の着流しの男を中心に、左右の男はいかにも下っ引きらしい成りをしている。
「船頭は番所に連れて行った。お前らの企みはとっくにお見通しよ。大人しく縄につけば、痛い目には合わせない」
右端の男が言った。
どうやら廻船に無断で乗り込もうとする人間が多いのか、その対策として海運側が私設で雇った男たちのようだ。
昌造が新之輔に目配せした。強行突破しようというのだ。
先方もそれに気づいたようだ。先ほどの男が言った。
「大人しく捕まる気はなさそうだな。先生、お願いします。わしらは年寄りのほうを押さえる」

下っ引きのふたりが、じりじりと昌造に近づいた。その構えは、隙だらけだった。
あとの男は浪人の風采だが、身を崩したようには見えない。全身隙の無い抑制された力を感じる。
男は新之輔をまっすぐに見た。目つきが鋭かった。
「ほう、なかなかの使い手とみた。これは楽しみだ」
低く物静かな声だった。猛々しさは無いし、狂気に憑かれた風でもない。むしろ静かな雰囲気をもつ男だった。
「おれは羽山竜之進。風神流だ」
男が律儀に名乗った。
風の便りに、その名前を聞いたことがある。自らは風神流と称しているが、人は鎌鼬(かまいたち)の剣と呼んでいる。一陣の風が吹いた途端、いつの間にか切られている、という。
(それにしても、案外、真面目な性格かも知れん)
新之輔はそう思いながら、自分も名乗った。
「風間新之輔だ。流派はない」
羽山はすらりと剣を抜き払った。
青みを帯びた刀身が、きらりと光った。
見事な刀だった。まともに打ち合わせれば、新之輔の持つ安普請の刀は、一撃で折れてしまいかねない。

対峙した途端、羽山は一気に間合いを詰めてきた。
疾風の如く右下から斜め上に剣を走らせた。
下からの攻撃は見切りが難しい。新之輔がかろうじて半身に引いて反らすと、切っ先が顔のすぐ前を通り過ぎた。
羽山は切り上げた刀を反転させ、今度は左下から切り上げてきた。
これは予測できた。新之輔は一歩踏み込んで、相手の剣を外側に弾き、そのまま上段から斬り下げた。
羽山の反応は素早かった。左へすっと回り込んで切っ先を交わすと、すかさず胸をねらって水平の斬りつけをした。
新之輔は後ろに飛びすさってかわし、二間の間合いをとった。胸のあたりの布が切られていたが、肌は傷つけられていない。

ほんの数合打ち合っただけで、息切れがした。まだ身体が万全でないのだ。それに相手の技量も並々ならぬものを感じた。羽山は正式な剣法を修得したうえで、自分なりの工夫を加えて達人の域にある剣士だった。
技も素晴らしいが、剣の速度はすさまじいほどだった。技は天性の要素もあるが、剣速は才能だけでは得られない。
おそらくこの男は、剣一筋に生き、おのれの剣技を磨くために、血のにじむような修練をやってきたのだろう。
(これは尋常な相手ではない)
新之輔は覚悟を決めた。命を賭けて戦う緊張感で、身内に新たな力が湧いてきた。
(ならばせめて一太刀を)
羽山が剣を右に引き気味に構えて、間合いを詰めてきた。
(上からくるか、下からくるか)
新之輔のほうが、背が高い。
(――下からくる)
相手の切っ先が動いたとみると、新之輔は捨て身の行動に出た。地を蹴って、身体の正面めがけて突きを入れた。これなら外しようがなかった。
羽山は見事な反応を見せた。前に踏み込む勢いを、すっと横に引く動きに変えたのだ。
剣先が相手の胸に食い込むかにみえて、浅く傷つけただけだった。新之輔自身も左太ももに傷を受けたが、かまわず上段から切りつけた。
その刀を羽山が撥ね上げた。
刃と刃が喰い合った。
(しまった!)と思ったが後の祭りだった。
キーン!と金属音がして、新之輔の刀の先が吹っ飛んだ。
羽山は撥ね上げた刀を反転し、切り下げる動きをみせた。
新之輔は死を覚悟した。

そのとき、昌造が横から斬りつけた。ほかのふたりを退けたようだ。
不意を突かれた羽山は、脇腹に傷を受けながらも昌造に向き直った。
「爺、逃げろっ!」
新之輔が叫んだが、遅かった。
神速の動きで羽山の剣が、一閃、二閃した。
胸を十文字に切り裂かれた昌造が、ゆっくりと背後に倒れた。
「爺っ」
折れた刀を捨てた新之輔は、背後から羽山の腰に両腕を巻きつけた。そのまま身体を反らせ、相手の身体を後ろに投げた。
どんな身軽な者でも、後ろ向きに投げられては防御のしようがない。
後頭部から大地に叩きつけられた羽山は、ピクリとも動かなかった。
「爺、しっかりしろ」
昌造のもとに駆け寄った新之輔は、傷の具合を見た。
羽山の剣はすさまじい威力だった。胸の肉だけでなく、骨までも断ち切られている。
すでに死相の現われている昌造は、かすれた声でつぶやいた。
「新之輔さま――生きて」
そして息を引き取った。
息絶えた爺を、新之輔はしばし抱きしめていた。
やがて、昌造を抱いて立ち上がると、山手にある寺へと足を運びだした。せめて手厚く弔ってやりたかった。

灰色の空の下、西廻り海運の船が水先案内船に引かれて、ゆっくりと下関港から離れていった。
船の中では小壺芳美が、不安な面持ちで新之輔たちの姿を探していた。

                              (第二部につづく)
[17/01/07 14:41 神亀]
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