連載小説
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「レイクエム2」 F幼少期の記憶
『幼少期の追憶』

6月20日、思い立って久しぶりに両親の墓参りへ、故郷の長岡に行くことにした。
朝、車に荷物を積み込み、家のガス、水道、電気の消し忘れを点検する。ガスは何度か火を消し忘れて、ナベを真っ黒に焦がしてから、ガスの火を長時間消し忘れても自動で消えるガス台に交換したから安心だ。水道は元栓を閉めて置かないと、もし、ホースが外れた時に水が流れ出て水道料金が高くついてしまう。
特に電気は漏電に注意する。以前、コンセントに埃が付いてショートして、ベッド下の床が焦げて、危うく火事になりそうになったことがあった。春さんに注意されて以来、家を出る時に火元の点検だけは厳重に忘れないように心掛けている。
いよいよスタートすることにして、愛車のエンジンをかける。エンジンが暖まるまで、少し暖機運転をする。愛犬クロを車に乗せると、普段は鎖につながれているので、尻尾が千切れるくらい振って喜んでいる。 
今朝の朝刊記事に新型コロナウイルスによる自粛によって外出が減り「交通事故死が3割減少した」と、書いてあった。しかし、煽り運転が続発しているから、ドライブレコーダーが普及しても危険で怖い。私の車にはドライブレコーダーを設置していないから、車の後部のガラスに「ドライブレコーダー搭載」の大きなステッカーを貼っている。
家を出てからしばらく、利根川沿いの県道を走る。川沿いは信号が少ないから快調なスタート出しだ。利根川の水量は少し多いが、水はそれ程濁ってはいない。
途中、国道294号線沿いのマクドナルドのドライブスルーで、ビックマックとコーラーを購入する。3密を回避するため、持ち帰り弁当を販売する飲食店やドライブスルーの店が増えている、という。
ゆっくり安全運転しながら、温かいビックマックを食べる。マクドナルドの違う店舗で、春さんとビックマックを食べた記憶を思い出す。どこにいても何をしても春さんと一緒にいた思い出が付いて来てしまうのだ。独りでは寂しい……。
最近、ようやくドライブスルーで、コロナのPCR検査をする所も出て来たが、外国のようにもっと多くPCR検査ができるようになれば、新型コロナウイルス感染拡大を予防できて、少しは新型コロナウイルス感染が収束するのかも知れない。
長岡に行くには、千葉県の自宅を出てから茨城県、栃木県の一般道を走り、群馬県の赤城インターチェンジから、高速の関越自動車道に入って関越トンネルを抜けて故郷を目指す。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
ノーベル文学賞作家、川端康成の小説「雪国」の冒頭の文章が思い浮かぶ。そこには雪国の暗く閉ざされた山河、自然と共に生きる人々の切ない人間模様が描かれていた。
車はかなりのスピードで冷気を振り切り、トンネルの中を疾走して行く。暗く長いトンネルは「郷愁への道しるべ」過去の思い出が故郷の心象風景へと導いてくれて、様々な想いが次々に巡ってくる。 
トンネルの暗闇の中、オレンジ色の誘導灯が左右に光っている。外気と車内の温度差で、フゥーッと息を吹きかけたようにウインドガラスが白く曇る。エアコンの冷房を強めて、目前の視界を確保する。長いトンネル内を行き交う車は一台もいない。
しばらく走行していると、反対側の走行車線を、スポーツタイプの高級車が、ライトをハイビームで眩しく照らしながら、明らかに制限速度オーバーのスピードで走り過ぎ去って行った。きっと家が裕福な若者の無謀運転に違いないと思う。
長いトンネルを突き進んで行くと、タイムマシンを通過したように、私の意識をいつの間にか遠い過去へといざなってくれる。思い出そうとしても思い出せない記憶や思い出そうとしないのに何気ない拍子に突然、思い出す記憶もある。
実に人間の脳とは奇妙なものだ。不確かな記憶を抱き続ける意味や価値を知ることなく、誰もが例外なく、時間の経過と共に老いて逝き、やがて「死」を迎える。
「年を取ると子供に帰る」という。生物の細胞はストレスによるダメージが蓄積して、増殖できなくなり「老化細胞」に変わる。加齢で増えた「老化細胞」は炎症などを引き起こして、肝硬変の原因になるという。
年を重ね老けると脳の毛細血管に古い血栓が溜まり、老化現象からか?無駄な動きをしなくなる。弱った筋肉、足腰の動作、鈍いしぐさが子供のように可愛らしく見えるのだ。
それが見たければ老人ホームへ行けば「棺桶に方足を突っ込んだ大人しい子供たち?」が大勢いる。
春さんの死とコロナ渦による友人たちとのコミュニケーション不足、自粛生活による孤独感が何故か?私の忘れかけた過去をたくさん連想させて来てくれる。
暗く長いトンネルを通って、子供の頃の様々な体験から来る曖昧な記憶へとタイムスリップする。ウインカーを点滅させて車線を変更すると、思考がさらに過去へと移行し、過去の記憶と向き合うことで見えて来るかも知れない何か?希望の一端を探ろうとする。

【雪の記憶】
越後の冬は凍てつく寒さが肌を刺す。私が子供の頃は温暖化などという言葉はまだ聞かれず、気の利いた暖かい防寒具もない時代だった。寒さに我慢強く慣れ親しんで、肉体が低温に順応するまでじっと待って、長く寒い冬の季節に対処するしか仕方がなかった時代だ。
新潟の豪雪地帯では春のお彼岸が近づく頃、早朝の冷え込みで田んぼの雪の表面がカチカチに固く凍る現象を「しみ渡り」と言う。
私は小学校へ凍った田んぼの上を歩いて登校した。下校時間には気温が上昇し暖かくなり、雪の表面が解けて「しみ渡り」はできなくなる。
吹き付ける雪片がこびり付き真っ白くなったマントに包まって、猛吹雪の中を母と一緒に隣の本家まで歩いて行った。今もなお、幼少時の記憶がハッキリと残っている。昔はまだ温暖化の影響が少なく、雪国は兎に角、豪雪で大雪の日が多かった。
朝起きると、前日の大雪で埋もれた玄関の戸が開かず、父、昭平が2階の窓から雪が積もった地表に降りて、「氷柱」が垂れ下がる玄関の真っ白い新雪を、スコップで掘り起こしているシーンが脳裏に浮かぶ。
屋根の雪下ろしをした雪が道に溜まってしまい、屋根より道路の方が高くなる。笑い話のように道路を歩いて滑って転び、屋根に落ちてケガをした人もいたのだ。
それから数年経って、冬温かい地下水を汲み上げ、道路の中央から少しずつ水を流して雪を解かす「消雪パイプ」設置の工事が始まったが、その工事を請け負って、最初に着手したのは私の父親であった。
その年は大雪が降り、幼稚園児の私より一つ年上の従弟、田島守男ちゃんと大人が使う大きなスコップで、新雪の雪掻きをして遊んでいた。守男ちゃんは新しい四角形のスコップを使って雪掻きをして遊んでいたのだが、ちょっとした弾みでスコップの角が私の額に当たってしまったのだ。
右目の上から鮮血が溢れ、流れた血が純白の新雪を真っ赤に染めた。瞬間的な痛みより、ほとばしる赤い血に驚いて私は泣き叫んだ。雪道を救急搬送され、数十針縫うケガをしたが、幸い失明することはなかった。もう少しスコップがずれ、目に直接当たって失明していたら、私はチャンバラ映画の主人公、丹下左膳になっていただろう。
小学生の子供たちは寒さ知らず、白銀の世界で遊ぶのが好きだ。「雪合戦」は子供たちの遊びの定番だ。数人が二つの組に分かれて雪合戦をする。拳大に握った雪玉をぶつけられた子供は、もう終わりで負けてしまう。
「雪合戦」はものの数分間で、勝負の勝ち負けが見えてくる。不利になると見方を裏切り、敵に寝返える子供が続出した。最後まで残った私は、雪玉の集中砲火を体中に浴びて痛かった。だが男なら最後の一人になっても戦うものだと思いつめ、泣きながら雪で造った陣地の壁に隠れて独りで防戦し、決して諦めなかったのだ。
その一途な行動力の記憶は、私が大人になっても常に男としてのプライド、威厳を持つことの大切さを保持してくれた。

【性の記憶】
私の村には同級生が一人もいなかった。1年生の時、村の駐在所に丸山潤一郎というお巡りさんと、その娘で広子ちゃんという可愛い女の子が引っ越して来た。私は友達ができたのが嬉しくて、広子ちゃんと、いつも仲良く手をつないで小学校に通っていた。それが私の淡い初恋だったが、あまりにも幼い思い出なので、初恋の香りがしないのだ。
5年生の夏、突然、父親の転勤で引っ越してしまった広子ちゃんは、どんな人生を歩み、私と同じように年を取った今も元気で生きているのだろうか?
6年生の同級生に岩崎正明くんという男の子がいた。彼も私も背が低くて、いつも前列から1〜2番だったので、特に仲が良くていつも一緒に遊んでいた。6年生ともなれば早熟な子供は、肉体の成長と同時に無意識に性を意識し、エッチなことに興味を示し始める。
日曜日、男の子たち何人かで「かくれんぼ」をしていて、私と岩崎くんは、農家の納屋のわら屑の中へ身体を隠した。
どういった経過か?今は定かではないが、その時、何故かふざけて?お互いの小さな性器を触れ合った体験がある。私の性の目覚めは、普通の男の子とは違った別の形を持っていた。
それは大人の男へと扉をこじ開ける思春期の性的衝動行為だとしても、男の子と女の子の「お医者さんごっこ遊び」と明らかに違っていた。異質で秘儀的な恥ずかしい自慰的行為だったので、以後、私はその行為を誰にも打ち明けることなく、幼少期の記憶を封印した。
10数年前、母から岩崎くんが、胃癌で亡くなったことを聞かされた。もう60年近くも会ったことがないが、彼には子供が二人いたという。

【川の記憶】
人が死ぬこと、人が居なくなった時の強い印象風景がある。頭の隅に隠れた固いしこりのような記憶は、小学6年生の友達、小幡清志くんが信濃川で遊んでいて溺れ死んだことだ。
当時は高度経済成長期で道路などの整備のため、信濃川の川原は砂利取りが盛んに行なわれていた。普段は平地の川原だが、砂利取りによって突然、大きな穴が開く。
雨が降って、その深い穴に茶色く濁った水が溜まり、平地と水溜まりの差、境界線の判断がつかなくなる。その穴に落ちると、丸い穴は蟻地獄みたいに回りの丸い小石が崩れて上手く這い上がれない。同級生の清志くんは、前日にはなかった穴、濁った水が貯まった穴に嵌ってパニックになり溺れ死んだのだ。
私にも川で溺れた記憶がある。従姉妹と数人で信濃川の川原で遊んでいて、深みに嵌って溺れたのだ。流れの早い本流ではなく、支流だったのが幸いした。泥水を飲み濁流に流されたが、川岸のジャカゴ(石組み)の針金につかまって、何とか這い上がり無事助かったのだ。
しかし、その記憶がはっきりとあるのに、年を重ねるとそれが全て事実か夢か?あやふやな部分もある。
当時、一緒に遊んで仲が良かった従姉妹たちとは、それぞれの親が死に縁遠くなってしまった。遠い過去の記憶は固いシコリ、肉片となって、いつまでも私の心に残っているのだ。
信濃川の河原にはキラキラ銀色に光る石がある。大人になって解ったことだが、紙のように薄く剥がれる白雲母という成分によって光る。他にも小さな水晶が混じった綺麗な石があり、太陽光線を受けると光輝いていた。黒い石たちは雨が降れば濡れて、何とも言えない奥深い落ち着いた色に変色する。
金のように黄金色に光る石はなかったが、動物に見える面白い形の「形象石」や、二つ開いた穴が両目に見えて、石が人の顔に見える「人面石」、石の表面が何かの姿形、模様に見える「文様石」など変わった石を探すのも楽しみだった。
当時、私の田舎には、日本海へ続くローカル線の電車が走っていた。線路の敷石にはキラキラと光る物がある。バラスト(砂利、砕石)から水晶が混じる石を探すのも楽しかった。
大人になった私が「水石」という石の世界に興味を示すのも、子供の頃、川で遊んだ原体験があったからだろうと思う。
線路上で石を探しながら歩いて行くと小川があり、小さな鉄橋があった。小川の鉄橋の下に潜り込み、小川の淵の枯草と雑草の上に寝転びながら、ガタン、ゴトンと走る電車の下腹を怖いもの見たさで見上げるのも、私の楽しみの一つだった。線路の枕木の油臭い匂いと、枯れ草の蒸れた匂いが、今でも懐かしく思い出される。
この小川では「掻堀り」といって、水の少なくなった浅瀬に拾って来た流木と泥や草で水を堰き止め、溜まっている水をバケツで汲み出して、コイやフナ、ナマズ、小魚を捕まえるのだ。自分より年下のサトルくんやマリコちゃんたちを引き連れて、泥んこになりながら、たくさんの魚を捕まえた記憶が懐かしい。
信濃川の川原で手に収まる程度の平な石を拾い、川の対岸をめがけて斜め横から水平に石を投げると、石は水面を大きな点から小さな点へと間隔を縮めて素早く弾け飛んで行く。子供の頃、いわゆる「水切り投法」という遊びを何度も飽きずに繰り返したものだった。

【山の記憶】
山の記憶は、春にワラビ、ゼンマイ採り、秋のキノコ採りが思い出される。母とはワラビ採りによく出掛けて行き、たくさんの山菜を収穫した。
ワラビは、茅野などが生い茂る良く日が当たった乾燥した所に太い物がある。春の季節、ワラビのある温かい場所では、ヘビともよく遭遇する。私はヘビが大の苦手なので、マムシでなくても出会うと背筋がゾクッする。長くヌルヌルしたヘビの苦手意識と恐れから、川でヘビが泳いでいるのを見つけると、恐怖心から落ちている石を投げつけて殺してしまう。
私の母は、あまりヘビを怖がらない。「マムシ酒」を作ると言って捕まえたマムシを焼酎が入った一升瓶の中に入れる。「マムシ酒」は身体に良く、傷にも効くと擦り傷に塗って薬もつけない。一度、瓶の中からマムシが逃げて、台所の縁の下にある野菜を貯蔵して置く箱の中で、マムシがとぐろを巻いていたことがあった。また母が捕まえて、マムシは瓶の中に再び戻されてしまった。
私の実家の隣には、屑鉄回収をして生計を立てていた今井伝之介という80歳位のお爺さんが住んでいた。その家というより木造の小屋はとても古く汚くて、大便所が板を渡しただけのお釣りが返って来る「ポッチャン便所」だった。当然のこと小便所のアサガオはボロ板でできたお粗末な物たった。
伝之介爺さんは、ヘビを捕まえたら食べていた。天気の良い日、皮を剥いで竹竿に干してあった気持ちの悪い赤身のヘビを私は怖いもの見たさで遠くから眺めていた……。
私の叔父さん田島雄一郎は国鉄に勤める鉄道員たった。
「ハアー、朝も早よからョ〜カンテラ下げてナイ」と歌い出す『常磐炭坑節』が得意だった。
叔父さんはキノコ採りの名人で、よく車で田中角栄さんの実家がある西山方面に連れていって貰い、色んなキノコを採った。ホウキタケ(ネズミタケ)を一つでも見つけると、それは足元一面に群生していて面白いくらいよく採れる。私は今でもキノコとワラビが大好物で、食すのがいつも楽しみなのである。
子供の頃、山に慣れ親しんだことから、私は高校に入って山岳部に入部した。
越後三山の一つである「八海山」に登ったことがある。この山の名をとった銘酒「八海山」は美味いお酒でとても人気がある。険しい頂上部へはクサリを伝って登って行く。山頂付近には黒くて硬質な岩肌の岩石が続いていた。
名石「八海山」の真黒石は、それらの大きな原石が崩れ落ち、大雨によって水無川から魚野川へと下って行く。石は流され、やがて信濃川に合流して日本海へと流されて行く。
自然の石は、水の力を得て、角が取れて丸くなる。いわゆる川ズレによって光沢が出て良石となる。人も長い人生経験を積むと、性格も少しずつ丸くなる。年を取って人生を達観すると、穏やかな人生を望むように角の取れた丸い石を好むようになるという。
清流、魚野川は鮎釣りが盛んで大きな鮎が釣れる。マラソンランナーの瀬古選手の監督だった中村監督が鮎釣りをしていて亡くなった川である。
山岳部の春季登山で、地元の守門岳に登った。身体の小さな私は、早朝から何時間もの間、昔の重い20人用テントを背負って登山道を登った。その時、両方の足が痙攣して歩けなくなってしまった経験がある。また、インターハイ登山で、縦走する先の登山グループが誤って蹴落とした石が、低い笹を伝って落下、私の目前でバウンドした。私が咄嗟に伏せたので、落下石が頭上ギリギリを通過して助かった経験もある。
谷川岳のマチガ沢の沢登りでは、大きな岩石の落石があり、幸運にも落石が岩と岩の間に挟まって命拾いしたこともある。
北アルプス連峰の槍ヶ岳登山では、同級生の登山部員が急性肺炎を起こして、自衛隊の緊急ヘリコプターで救助され、命拾いしたこともあった。
そうした経験から、やはり小さな肉体、体力の無さに限界を感じて、自然界への尊厳、恐れから二度と険しい山へは登らないと誓ったのだ。
考えて見れば私は随分、死に損なっているような気がする。だが、私は今日まで生かされて、自分の人生を歩んで来た。それは単に運だけとは、どうしても思えないのだ。自分に決められた運命、宿命のようなものかも知れない。

関越トンネルを抜け、越後湯沢に出ると、心の旅の意識が現実に引き戻される。越後湯沢インターを出て、車は国道17号線を故郷に向かって走る。もう日が暮れて遅くなってしまったので、宿泊は道の駅「南魚沼」での車中泊だ。
全国各地にある道の駅に車中泊する人は多い。車中泊する人にとってトイレと洗面所は確保しなければならない絶対条件である。最近の道の駅はとても良く整備されていて、綺麗で設備も充実している。周辺の観光案内書も置いてあるからとても便利だ。飲み物は夜中でも、自動販売機で購入すれば良い。
道の駅には必ずと言っていいほど車中泊の旅人がいるのだが、今は、新型コロナ自粛の影響で、遠くからの旅人が減少してしまった。
翌朝、早く目覚め、顔を洗ってからお寺に向かって出発する。両親の墓は、実家から20分程の山沿いの杉林に囲まれた古いお寺「願誓寺」にある。そこには兄、昭一も眠っている。「願誓寺」は浄土真宗の大谷派に属する寺で、苔むした墓石がひしめくように並んでいる。
私は春さんと同じで宗教には全く興味がない。ただ、五木寛之の「親鸞」の書物を読んで感動した。親鸞聖人が、越後に流罪になった関係か?新潟県には浄土真宗が多い。しかし、私は墓参りに来ても「南無阿弥陀仏」と唱えることはない。「南無阿弥陀仏」の言葉は好きでも宗教を信じられない心と、どうしてもそぐわないからだ。
無縁仏の墓の前を神聖な気持ちで通る。どんな人たちが無縁仏となって埋葬されているのだろうか?両親の墓に入れない私も無縁仏の墓に埋葬されれば独りで淋しくないか?とも思う。少なくても死後、父や母の墓の側にいられる。両親の墓の回りに叔父さんと叔母さん、我が一族の墓が集中している。兄、昭次の墓もある。私は三男で自立し、家を出たから、両親の墓には一緒に入ることができないが、それも仕方がない。
現代社会では、お墓を未来永劫に渡って守れるとは限らない。かなり古い墓も多く点在し朽ちかけている。現在、墓を守る人がいなくなって「墓じまい」するケースが増えているという。いずれ墓石は、海のテトラポットとして無残に捨てられるか?細かく砕かれて道路の敷石に変わってしまうのも時代の定めなのだ。
みんな亡くなってしまい、実家とも縁遠くなってしまったので、いずれ自分の身は自分で始末しなければならない。せめて自分のお骨は、今流行りの樹木葬か、そっと信濃川にでも流して貰えればいいと思う。散骨されたお骨はいずれ日本海へと流されて往くだろう。
遺言書は常に財布に入れて持ち歩いているが、生涯独身で故郷と離れて暮らし、親族とは縁遠い私の骨を、実際には誰が処理してくれるのだろうか?役所の知らない役人か?
両親が眠るお墓を綺麗に掃除して、お花と線香を上げてお参りする。いつまた再びここを訪れ、亡き父と母の遺骨に逢えるか分からないと思うと寂しい気分になる。
両親と兄弟が死んでから、実家とは縁遠くなった。血縁のない兄嫁の兼子と甥たちには、父が亡くなった時、遺産相続で揉めて以来、絶縁状態で二度と会いたいとは思わない。
 昭和の時代、生活が貧しくても心は豊かであった。地方、田舎には家族、親戚、近所と人の繋がりがあった。親が死ぬと親戚との縁が薄れていく。時代が過ぎて生活が便利に豊かになるに反して、人との縁が希薄になっていってしまうのは時代の流れで仕方がない。


26/08/25 17:03更新 / 河志摩 運
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