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「レクイエム3」 K 伊吹春江の想い
『伊吹敏江の想い』
早いもので、あの人が亡くなってから12月18日が8回目の月命日になる。
朝、ゆっくりと起きあがってから、田島さんが私に私に買ってくれたテイファールのポットに水を入れ、スイッチを押すとグッグッグッグッと音がして、すぐにお湯が沸く。
いつもと同じようにあの人が好きだったインスタントのコーヒーに少しだけ砂糖を入れてお湯をそそぐ。ホットコーヒーを霊前に供えてから、いつものように線香を上げる。
庭から摘んできた仏壇の草花は少し枯れかかっている。
あの人が近所の人にも内緒で飼っていた小鳥(ひばり)は、私がエサをやる時に籠から逃げて飛んでいってしまったから、この家には私のほかに小さなガラスの水槽に人れたかわいいメダカ数匹しかいない。
あの人が生前、開けっ放しの窓から飛び込んできたメジロを捕まえた。野鳥は法律で飼ってはいけないそうだから、内緒で飼っていたかわいいメジロ。そのメジロはしばらくして死んでしまった。ひばりも死んじゃうとかわいそうだから、せっかく懐いてきたが、籠から逃げてしまって良かったのかも知れない。
この半年間、あの人の代わりに私は晴れた日の午前中、家から歩いて数分の畑仕事に出かける。ひとりのんびりと草取りをしてから、あの人が植えた野菜にいくつかの甕にたまった雨水をかけて育てていた。あの人が死ぬ前日に植えたキュウリとトマトは大きく育ってたくさんの実をつけたので、娘や孫と近所の規しい知人に配ってやって喜んでもらった。
「お爺さんが畑仕事をする時に、中腰では腰が痛くなるだろう」と言って、田島さんがあの人に買ってくれた大きなゴムタイヤのついた腰掛け車のおかげで、草取りも楽にできて腰も痛くないから助かる。
家に帰ってから少しベッドに横になって体む。それからひとりで好きなアイスコーヒーを飲みながら、いつものようにテレビドラマや時代劇を見るほかにこれといった楽しみはない。
あの人が畑仕事をしない時は出かけることが多かったから「夫が不在でも充実した生活ができるように、自分を支えて生きてきた」だから、あの人が死んでから、気持ちも身体もそんなには辛くはない。でもやっばり力仕事は男でなければできないから、なにひとつ嫌な顔もせず、なにもかもすべてやってくれたあの人のありがたさが改めて身に染みる。
千葉の成田に近いこの町は、京成電車が東京へと走っていて便利なせいか?コロナ感染者が増えている。基礎疾患がなくても私のような年寄りには新型コロナウイルスは怖い。
今、この町ではかなり多くのコロナ感染者が出ているから、なるべく買い物に出かけないように気をつけている。
たまに飲み物とおやつを買いに近くのセブンイレブンヘ歩いて行く。支払いはナナコカードで済ませる。このカードは田島さんがあの人と私に買ってくれたものだが、とても便利でポイントも付く。
最初、年寄りには面倒くさくて分からないと思ったけれど、田島さんが詳しく教えてくれた。田島さんは本当に細かいことに気がつく、いい人だからあの人がしょっちゅう田島さんの家に行きたがる気持ちも分かるような気がする。

あの人が乗っていた軽自動車はしばらく敏子が乗っていたが、7月 に車検が切れた。
あの人とスーパーヘ買い物に行った時、車を当て逃げされて車の後がひどく傷付いていたので、敏子が車検の時に新しい軽自動車に買い替えた。週に一度、その車でスーパーヘ、孫たちと食料や日用品をまとめて買いに出かけるので、気晴らしになる。
時々、一人暮らしの私を心配して娘と孫や曾孫たちが訪ねて来るが、コロナ感染者が急増してからは、その回数が減ってしまい、かわいい曾孫たちの顔がちょくちょく見られなくなって、少しだけ 寂しい。
それでもあの人が死んでから、二人の息子たちも時々、電話をかけてくれて、ひとりになってしまった私を心配して気遣ってくれるのが何よりうれしい……。

4月18日に、まさかあんなに丈夫で元気だったあの人が、突然死んでしまうとは思わなかった。だからあの人の友達の田島さんが、突然、家に車で駆けつけて来て、すぐ救急車を呼んでくれるまで、私はコロナなんてよく知らないから、ただあの人が普通の風邪で寝込んでしまったくらいにしか思っていなかった。年を取ってからもあの人はいつも元気だったから、いつものように「少し寝ていればすぐに直る」と軽く考えていた。
それが普通の風邪ではなく、肺炎を起こして命が危ない状態になって、あっという間に死んでしまったなんて信じられない。
死んでもPCR検査をしなかったから、死んだ原因は肺炎で新型コロナウイルス感染ではないらしい……。私も幸いまだコロナには感染していないようだ。
あの日、私は苦しんでいるあの人のそばで、寒いからコタツに入り長まってた。
「私はいったい、なにをしていたのだろうか?」
「私はなにもしなかった」と、今さら考えてしまう。
あの人は88歳まで長生きして人生を全うしたと思う。若い時の交通事故で大ケガをした他には、特に重い病気で苦しむこともなく毎日健康で元気で過ごしていた。それなのに死ぬ2日前、急に苫しみ出して本当に呆気なく死んでしまった。
「旦那さんが長い時間苦しむこともなく、長い問入院しなかったのは、残されたお婆さんや家族に負担をかけないで良かったのかも知れませんね」と、近所のお婆さんたちは、今になつて言う。
私を慰めてくれる気持ちはありがたいが、そんなふうに慰めごとを普通に言える人は、あの人のことを特別に思っていないからだ。でもそう思う私はあの人を本当に特別に思っていたのだろうか?あの人を本当に愛していたのだろうか?ただ、最良の伴侶だと思っていただけではないだろうか?
私には「好きだという思い」と「愛しているという思い」の違いがあやふやで良くわからないところがある。
近所の年寄りの夫婦を見ても、いつまでも手を握り合うような仲が良い夫婦はほとんどいない。どこのお婆さんも多かれ少なかれ、いつも夫への不満を口にして喧嘩をしていると言う。
中には、厄介者のお爺さんが死んで正々生き生きとして若返っているお婆さんもいる。今の人は昔と違って性格の違いからか?我慢もせずにすぐ別れる。年寄りの熟年離婚だって増えているらしい。私の若い頃は生活がとても大変で、子育てで息つく暇もなかった。
旦那さんに不満があっても別れないのは年を取ってひとりで生活していくのが大変だから、たとえ旦那さんのことが嫌いでも別れないで我慢しているのだと思う。夫婦だって所詮他人なのだから……。
あの人が死んでしまってから、お葬式や役所の手続きもすべて子供たちがやってくれた。私は千供たちにすべて任せて、なにひとつしなかった。春喜が交通事故で死んだ後に3人の子供たちを授かることができて本当に良かったと思う。
特に敏子は息子たちと違って、女同士で話相手になってくれるし、一番役に立ってくれるからありがたい。だから、遺産相続のことも敏子にすべて任せて、私はなにもしないし、口を挟むつもりもない。
あの人はとても真面日で働き者で器用だったから、なんでもすぐにやってくれた。私は育児と家事だけに専念していれば良かったから、いつの間にか、お金のことも他のことも、他人任せで自分からはあまりやらなくなってしまった。
私は今でも「本当に良い人と一緒になれた」とありがたく思っている。
それなのにあの人が死んだ時、悲しくて泣き崩れることもなく、ただ呆けたようにぼうっとしていただけ。あの人とあんなに長く、60年以上も一緒に連れ添っていた仲だというのにどうしてだろう……。
春喜が交通事故で死んだショックで悲しみの感情の一部が壊れたままになっているのかも知れない?
私ももうすぐあの人と同じ米寿を迎える。私があまり悲しんでいないのは年のせい、年齢による単なるボケじゃあないか?と周りの人は思っている気もするが、年の割に私の頭はまだしっかりとしている方だと思う…。
私たち夫婦は初めての子供ができたら、男の子はあの人の「春吉」から、女の子だったら私の「敏江」の名から一字取って名付けようと決めていた。
初めての子供、男の子が生まれた時、あの人の名前「伊吹春吉」から一字貰って「春喜」と命名した。
「春よ来い 早く来い」
北アルプスの厳しい冬、あの人の故郷「安曇野に長く待ちわびた春が来るのを喜ぶ」という思いから、夫婦で相談して決めた「春喜」が良い名前だと二人で喜んだのを思い出す。
「春喜」はあの人に良く似ていて、とてもかわいらしくて素直な子供だった。
「春喜」が4歳の時に三輪車に乗って遊んでいて、私が目を離したすきに、自宅前の道路を左折して来た大型ダンプカーに引かれて死んでしまったのだ。
あの時、「私のせいだ!目を離した私が悪かったのだ」と泣き叫び、半狂乱のように頭を抱えた。悲しみのあまり心のどこかが壊れてしまった。喜怒哀楽の糸がプツンと切れてどこか遠くに逝ってしまった。
あの人もしばらくの間、言葉を失った。「春喜」の死をきっかけに私たち夫婦の絆の糸が段々とに細くなり、夫婦の交わりも少しずつ減ってしまった。私は躁うつ病に悩まされ、心と体がついてこない心の病で、何もやる気が起きなかった。 しばらくの間、家に引きこもり、生きる張り合いを失しなった。
「春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいておんもへ出たいと 待っている」そんな気持ちで日々を過ごしていた。

2年後、「光春」が生まれ、さらに「敏子」と「孝春」を授かり、ひたすら子供を育てることによって私は生きがいを少しずつ取り戻せた。子育てと家事に追われることで、自分の心の穴を埋めながら必死に生きてきた。しかし、初めての子供を無くしたショックは大きな傷跡となって、今も心のどこか?奥深い場所に埋まっている。
あの人とは必要なこと以外の会話はほとんどなく、食事の時も静かに向き合うだけの毎日。もう30年以上も夫婦の営みもない。子供を3人も産めばもうたくさんなのだ。
それでもあまり不平不満を言わず、毎日、 朝早くから夜遅くまで働き、私や子供たちに何不十分なくしてくれたことには感謝の言葉しかない。そのお陰で子供たちは健康に育ち、それぞれが独立して平穏に暮らせている。
「春喜」が死んでしまってから、私は時々、すべてが面倒くさくなってしまうことがある。一人で静かにしている方が疲れないのだ。私は近所付き合いも決して嫌いではないが、面倒な付き合いをしたくないし、人と口を利くのが億劫だから自分からけっして人に話しかけることはしない。
人との交際が上手なあの人は、私のたった一つの趣味である社交ダンスと同じように「もっと近所の人と積極的に交流したらいいのに」と常日頃から言っていた。
私も年を取って背中が丸くなり、動きもすっかり鈍くなってしまったが、社交ダンスを踊つている時は別人のようにしゃきっとしている。踊っている間は相手と会話する必要もなく、一定の距離を保って身体を激しく動かし華やかに踊っているから楽しい。かなり体力を使うが、私はその沈黙と疲労感がとても好きなのだ。でもさすがに80歳後半にもなって踊るのはかなりしんどいが、まだ踊れることが生きている励み、自信にもつながっているのだと思う。
現在はダンス教室もコロナの影響でほとんど休んでいるが、コロナ自粛で家に閉じこもることには苦痛も感じないし、むしろ身体も気持ちも休まる。
私は子供の頃、家が貧乏でいつも同じ服しか着せて貰えないような貧しい家庭で育った。だから次第に大人しく控え目な性格になり、近所の子供たちにいじめられてからは、いつも両親の背中に隠れて世間を見るような消極的で口数の少ない女の子になってしまった。
自分の思い入れを人に押し付けず、ありのままを受け入れる質だから、人との付き合いがあまり上手ではなかった。
そんな貧しい家庭環境で育ったせいか?プラスチックごみが漂い、油の匂いがするように汚れている、家の近くの千葉の海よりも、遠くにあり静かでだれもいない美しい山々、山野草の花花が咲き誇る自然に憧れていた。私が生まれた育った千葉県には大きな高い山はない。
叔母さんに紹介された伊吹春吉と見合い結婚したのも、春吉が長野県の北アルプスの麓、安曇野の出身だったから「春吉と結婚すれば、憧れた大好きな山に登れるかも知れない」と単純に思って心ときめかして結婚を決めたのだった。

去年の9月の台風15号と19号の時、千葉県では強風と大雨により多くの被害が出て、私たちの近所の家でも屋根が壊れて大変だった。
工務店を経営して大工だったあの人は87歳という高齢にも拘わらず屋根の修理をあちこちの家から頼まれた。人が良くて近所付き合いの良いあの人は、近所のホームセンターで資材を確保し、格安で修理をしてあげていた。
「お爺さんが屋根から落ちて怪我をしてはいけないから」と心配して、早朝に突然、田島さんが連絡もせずにあの人の手伝いに来てくれた。あの人と腰の悪い田島さんの二人がハシゴで高い屋根の上に登って、笑いながら楽しそうに話をして作業をしている。
その様子を私は、孫娘と曾孫たちと下から見上げて、あの人が落ちてケガをしないかどうか?心配していた。結衣と未希、二人の幼いかわいいい曾孫たちは、優しい「じいじ」が大好きで「じいじ、じいじ」と、はしゃいで小さな手を振っていた。

「30年来の親友である山谷繁さん、やはり古い友人でカラオケ店を経営している松田肇マスターよりも、付き合いの短い田島さんの方が、とても親切で気遣ってくれる」と、あの人に話したことがある。
私は自分が内気で積極的に人の前に出ず、なにもしないくせに、気が小さくて引っ込み思案の山谷さんがいつも自分を見ているような気がしてあまり好きになれない。
あの人と田島さんは不自然なくらい仲が良い。考えて見るとあまりに仲が良すぎる二人の関係に、私は知らぬうちに田島さんに対して少しだけ嫉妬していたのかも知れない。
あの人が近所のおばさんと仲良くしていても、決してヤキモチを焼くことはないのになぜだろうか?高齢なあの人はもうとっくに浮気をする年でもないが、もし他の女の人を好きになってしまっても別にどうってこともなく、私はなにも感じない。私は女の人にはあの人との長い夫婦生活で培った経験がるから負けなくても、田島さんのような男の人には、男と女の違いかも知れないが、とても勝てそうもない気がする。
今まであまり気づかず、気にもしなかったが、あの人が田島さんと出会ってから、あの人がひょっとして?女の人より男の人の方が好きだという一面があるということを思い浮かべさせられた。
それはあの人が経営していた工務店の大工職人たちとの親密な親しい関係でも、単なる男同士の友情みたいなものとは違うような雰囲気がしていたからだ。男同士の友情に女の私はとても太刀打ちできない。男同士の関係、絆に免疫を持つことができない私はとてもかなわず打ち勝つことはできそうもない。
あの人が田島さんの仕事を手伝っているとは言え、田島さんの家に泊まることも多く、私ひとりで気楽な面もあるが、まるで夫を寝取られてしまったような変な気持ちになってしまう。
光春と孝春の子供たち、親子関係以上にあの人は田島さんと親しくて仲が良い。離婚してしまった孝春とあの人は、お金の貸し借りが原因で、今も仲直りしてくれない。あの人は本当に優しくて大入しいが、かなり頑固のところがあるから、私は孝春と早く仲直りして欲しいのだが、いつもあの人にはなにも言えなかった。
田島さんは親切で温厚なとても良い人だ。ずうっと独身で奥さんはいないらしいが詳しいことは知らないし、あの人に一度も尋ねたこともない。私にもとても親切で感じが良いが、田島さんの性格が良ければ良いほど、あの人に親切にしてくれればくれるほどなぜか?あの人の妻として女として面白くない感情、ヤキモチに似たような気持ちになってしまうのだ。
あの人が死んでから一月後の命日に、田島さんが線香を上げに来てくれた。その時、私に気を使って好きなアイスコーヒーをおみやげに持って来てくれた。
「お爺さんのお墓参りに行きたいから、お墓の場所を教えてください」と田島さんが言う。
霊園は大きくてとても広い。墓の場所がわかりづらいので、私も田島さんの車にいっしょに乗って墓参りに行った。家に帰ってから二人でお茶を飲みながら、少しだけあの人の話をしてから田島さんは帰って行った。
2度日の月命日は、私が敏子のマンションに行っていて、私は携帯電話を持っていないから連絡が取れず、田島さん一人で墓参りに行ったと言う。それ程、田島さんはあの人のことを思ってくれている。とてもありがたいことと頭でわかっているが、もう少しそっとしておいて欲しいという思いが湧いてきた。
私は田島さんと居る時間が少し心に負担で、たびたび他人に自分の家の敷居をまたいで欲しくないという自分勝手な気持ちになってしまう。ひとりで静かに暮らしたいから、放って置いて欲しいと願っている。
3回目の命日に田島さんが自宅を訪れた時、別に悪気はなかったが「もうお爺さんは死んでしまったのだから、無理して来てくれなくてもいいですよ」と、少し突き放した言葉を告げてしまった。困惑した顔で悲しげな表情の田島さんはそれ以来、家に電話をして来ることもなく、姿を見せなくなってしまった。
私は田島さんが嫌いな訳ではなく、あの人にも私にもとても良く親切にしてくれたから大好きなくらいなのに、身内以外の面倒な付き合いが嫌でたまらないから申し訳ないと思いながらも田島さんを遠ざけてしまった。

その後一度だけ、田島さんから電話があって「今、長野県に来ているのですが、お爺さんの出身地の駅名は何ですか?」と問われた。
丁度その日の翌日に、光春と敏子の3人で長野県のあの人の実家へ車で行く予定だった。
「90歳過ぎているお兄さんに、遅くなったが春吉の納骨を無事済ませることができたこと」を報告する予定だった。
その後、私が教えて上げた、松本から乗り換える大糸線の「安曇追分」駅に、田島さんが行ったかどうか?は知らない。
あの人が死んでから、半年以上が過ぎた今、あの人がいなくてもあまり寂しさは感じないのはなぜだろうか?私はひとりで過ごすことに慣れているというより、元々、他人に気を使わずに済むひとりの方が好きな女なのだ。
だから、これからも大きな病気もせずにずっと変わらず健康で暮らしたいと思う。
腕の良い大工職人だったあの人が、私たちふたりの老後のために一生懸命建ててくれたこの平屋建ての小さな家で、独りでも静かに老後をのんびりと暮らせていければ、私にとってこれほど幸せなことはないのだ。
26/08/25 17:17更新 / 河志摩 運
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