連載小説
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「レイクエム2」 I初めての広島
『初めての広島へ』

10月1日、思い切って広島の旅へ出掛けることにした。
広島に行きたい理由が二つある。一つ目は今年「戦後75周年」になり、原爆投下された広島を体が動く間に一度は訪れて、広島の原爆ドームや原爆資料館を見たいという思い。  もう一つは昔、結婚したいと思った川崎幸代が広島に住んでいるからである。幸代とは、特に会いたい訳ではない。何故なら若い時の失恋の相手で、今更会ってもどうしょうもないからだ。
数年前、突然、私の携帯に幸代から電話があり「東京に行く機会ができたら会いたい」と、言うのだ。私は突然の電話に驚き、何故、幸代が私の携帯番号を知っているのか?不思議に思ったが、私が昔書いたラブレターに私の田舎の住所と電話番号が書いてあったから、それを見て、田舎のおふくろに私の携帯番号を聞いて掛けて来たのだと言う。
母はその電話を大変喜んでいた。何故なら愛する息子が結婚もしないで独身でいるのは若い頃の失恋の痛手が原因で、その結婚を両親が反対したからだとずっと思い続けていた。
今となっては誰でもいい、どんな女でもいいから愛する息子の妻になってもらい、孫の顔が見たいと望んでいるのである。母は私が結婚しない本当の理由を知らない。
約40年ぶりに聞いた幸代の声は少しも変わっていないが、懐かしさの感情は微塵もなかった。昔のラブレターを捨てずに持っていてくれたことには嬉しいという気持ちはなくて、複雑な感情であるが、私には失恋時の苦しい思い出しか残されていない。そんな苦しい恋を象徴する漫画がある。
上村一夫の劇画「同棲時代」だ。小さな広告代理店に勤める今日子と、売れないイラストレーターの次郎が、ひとつ同じ屋根の下で同棲する。仕事も家庭も性も曖昧にして、毎日、のほほんと暮らしていく物語だ。
男と女の同棲は自然だが、男と男の同棲は異質なもの。まれに子供が居ながら離婚した男と未婚の男が同棲して30年以上も一緒に生活しているカップルを見たことがある。男同士の同性愛は長続きしない。それは性の欲望に支配され、常に新しい相手を求めるからである。
林静一の漫画「赤色エレジー」も悲恋を感じる幸子と一郎の同棲物語である。共に1970年代の郷愁を誘う昭和的美学の貧しく切ないイメージが懐かしい。
1972年、歌手のあがた森魚は、貧困の時代のうら悲しい思いを切々と『赤色エレジー』で大正ロマン風に歌いあげたのだ。

私は幸代と電話で話をしているうちに益々会ってみたいという気持ちが薄れていく。若い時と違い、お互いに老いているのだ。青春時代の苦い思い出はそっとして置きたいものだ。
「今、介護の仕事をしていて、体力的にも疲れるから転職を考えている」と、幸代は言う。「選挙の時は公明党に入れて欲しい」とも、創価学会に入っている彼女が言う。
春さんじゃあないが、私も宗教が嫌いである。私は公明党には所属していないから、公明党員に一票を投じることは絶対にないと思うが、幸代には告げない。
「もし、装飾品関係の仕事に決まったら、東京に行く機会があるかも知れないので、その時は是非とも会いたい」と幸代は言うのだ。私は幸代に会うことはやぶさかではないが、兎に角、電話の声が暗過ぎるのには閉口した。
その頃、テレビで「あの人に会いたい」という番組があって、色々な事情で別れ離れになった相手をテレビ局で探し当てて再会させるという番組が人気だった。私は幸代が今、生活苦で、そのテレビを見て、突然、私に会いたくなったのではないか?と勘ぐってしまった。
あの時、私はまだ苦学生で、四畳半一間の住み込み先の同じバイトで出会った幸代に一方的な片思い、純粋に恋心を抱いただけなのだ。何故なら幸代とは、肉体関係が一度もないし、幸代は私に対して好きという感情すらなかったから。
幸代には両親がいなくて、優男に騙されて子供を産んでいた。まだ若くて恋愛経験のなかった私の恋は、同情心から生まれた恋だった。当然、私の両親は、愛する息子のことを考えて賛成するはずもない。
「恋は盲目」それでも若気の至りで、随分と悩み苦しんだものだ。
幸代は産まれて間もない女の赤ん坊を連れて、広島に住む姉を頼って行ってしまった。
私に何も告げず黙って行ってしまった。私は幸代が、どこに行ってしまったのかも知らないで、悩み途方に暮れてしまった。
春さんの死もそうだが、突然、好きな相手が目の前から消えてしまう。自分の思いをぶつける対象が急に居なくなるほど苦しいことはない。
「恋人にふられたの」
「よくある 話じゃないか」
「世の中 かわっているんだよ」
「人の心も かわるのさ」
日吉ミミの『男と女のお話』という昭和の流行歌のように、むしろ幸代に嫌われた方が、苦しまなくて済んだのだ。感情の捨て場もなく悩み、心が詰まってしまうと、苦しくて死ぬことさえ考えてしまうのだ。あの失恋時、私はノイローゼになり、地下鉄電車が構内に入って来て、目の前に迫り来る寸前に一歩足を踏み出して線路に飛び込むと、どうなるのだろうか?とよく考えていた。だが、従兄弟の神林和男がバイクに乗って、列車と衝突して死んだ時の事を思い出して、踏み留まった。和男は死にたくて死んだのではない。
「命はそんなに軽いものではない」という和男の声が聞こえたような気がした。そこには黒いカラスが一羽も飛んでいなかった。
1年後、実家に帰省すると父、昭平が私の顔をまじまじと見て言った。
「お前、その眉毛はどうした?」と、ストレスから円形脱毛症になる事があるが、私の場合は髪の毛ではなく、両方の太く濃い眉毛が全て抜け落ちてしまったのである。酷い不眠症になり、医者から睡眠薬を貰って飲んでいた。しかし、目が覚めるとガンガンする酷い頭痛に悩ませられてしまう。結局のところ私には睡眠薬は合わないと感じた。
2年後、私は過去の夢はかなわぬ夢と失恋の痛手から脱却することができた。そしてようやく自分の人生を謳歌する道を歩み始めることができた。
当時、身寄りのない川崎幸代の力になっていたのが、アルバイト先の日本橋、茅場町にあった製紙会社の工場長、青木幾三郎だった。日頃から親のいない幸代をいろんな意味で影ながら援助していたのだ。
当時、青木さんの年齢は60代で、私と同じ新潟県で生まれた。山古志村出身で、奥さんを乳がんで亡くしてから3人の子供たちを一人で育てている。青木さんは、人柄がとても良くて社員みんなに信頼されていた。そればかりか、故郷の山古志村の貧しい農家の人たちを仕事のない冬季の間、自分の工場へ毎年、出稼ぎに招いていて、出稼ぎ労働者の彼らにも好感を抱かれていたのだ。
私は父、昭平を尊敬していたが、常に父との距離感を感じ一種のファザーコンプレックスを持っていた。そんなことから身近な父親代わりが欲しかった。私は幸代を恋する思いと同時に青木さんにも強く心を寄せていたのだが、幼少時、岩崎くんとの性的体験と同じように男性を好むという願望を心の奥で意識しても、当時はあえて「禁断の恋」を心の奥深い場所に閉じ込めて鍵を掛けてしまっていたのだ。
「男は結婚して子供を作り、家族を養うのが当たり前」と考えていた私は、子供の頃に封印した同性愛的資質を隠し続けて来た。幸代と一緒になることで、一度に妻と子供、父親のような存在の青木さんまで手に入れてから家庭という空想空間を築く甘い夢を見ていたのだ。純粋な恋の裏に下心もあった。
「普通の結婚」「普通の家庭」という理想像に私は恋していたのだ。しかし、失恋は全てを否定してしまい、私が人生というものを切実に真剣に考える転機になった。 
その後、幸代から何回か電話があったが、私は「幸代との失恋から多くのことを学ぶことができたから本当に感謝している」と告げて、「幸代もこれから残りの人生をもっと明るく楽しく生きた方がいいと思う」と、忠告した。
それからは自然に幸代からの電話も掛かって来なくなってしまったし、私から一度も電話することもなかった。兎に角「幸代が元気で明るく生きて行って欲しい」と願うばかりだ。
私が失恋してから2年間、悩み抜き、そして苦しみから解放された手段は文学で、人生をどう生きていくのか?何をすれば良いのか?解らずにむさぶるように書物を読み耽った。
私の人生で一番影響した書物、小説は、ドストエフスキーの「罪と罰」で、後頭部をいきなり棍棒で強く殴られたような衝撃、感動に打ち震えた。そこから私の新たな人生、自分史が始まったと言っても決して過言ではない。 
以後、普通に男と女の恋も何度かして、母を安心させるために結婚も時おり考えたが、自分が同性愛者だということが足枷になってしまい、いつまでも踏み切れなかった。例え結婚したとしても相手の女性を真に愛せるかどうか?解らない、彼女を不幸にしてしまうかも知れないと考え悩んだ。
女性を愛せないのではない。性を意識し始めた時、気が付いたらすでに、女性より男性の方に魅かれていただけなのだ。もし、同性愛という言葉を知らないで普通に結婚していたら、普通の家庭生活を送れていたのかも知れない。知らない男からのアプローチで、男の世界を知り、年を取ってから同性愛に目覚めた年配者のケースも多い。
気が付けば私は年老いて、今日まで独身を貫いてしまったのだ。輪廻転生、生まれ変われたら、例え失敗しても良いから、一度は結婚をして見て、子供を授かって見たいとも思う。

山手トンネルを過ぎ、私の車は都心を抜けて東名高速道路に入り、関西方面に向かう。
運転席の遮光ボードには春さんの写真と非常時の一万円札が挟み込んである。一緒に旅する思いでいつも隣に座っていて、交通事故からきっと私を守ってくれるような気がする。
「あまりスピードを出すとタイヤが外れるよ」と高速ドライブで、春さんが言った微笑ましい言葉が脳裏に浮かぶ。 
長時間運転すると腰が痛い。途中、パーキングエリアで何度も休憩する。名古屋を過ぎて夜遅くなってしまったので、適当なパーキングエリアで車中泊をする。
早朝、ぼんやりしながら目覚める。昨日の長距離ドライブでかなりの疲労感が残っているが、腰の激痛は少し薄らいでいる。パーキングエリア内のトイレで用を足して、顔を洗ってから出発する。車は、晴れやかな朝陽を浴びながら新名神高速道路を経て、山陽自動車道に入り、広島へ向かう。
見知らぬ田園風景や街並みが後方に通り過ぎる度に、日本は広くて美しいと感じる。
「どこに行っても、家があるんだねぇ」と、知らない場所を初めてドライブした時に感心していた春さんの口癖の言葉を思い出す。
「春さんの住む町ばかりじゃあなく、日本中どこにでも家はあるさぁ」と、私が笑う。
例え春さんが、私の隣の席に座って居なくても、いつも思い出と一緒に旅しているのだ。

広島まで二日間、片道約900kmを走行してようやく到着した。
山陽自動車道の高速道路から降り、車ナビを原爆ドームに設置し、広島の市街地へ向かう。爆心地付近の駐車場が運良く空いていたので、愛車を駐車する。
原爆ドームの記念碑前で、散歩をしている地元の人が立ち止まり、目礼して手を合わせる。それがいかにも自然体で、毎日決まった行動のように見える。これが人間としての自然な姿勢だと思うと、胸が熱くなった。
原爆の象徴的な建築物の原爆ドームは修繕中で、側にガイドの老人が二人いた。ガイドに平和記念公園の広島平和記念資料館の場所を聞いてから、元安橋を渡って国立広島原爆死没者追悼記念館に入る。
追悼空間スロープを時計回りと逆方向に下って行くと、原爆投下時へと時間をさかのぼって行く。死没者追悼空間は原爆死没者を静かに追悼して、平和について考える場所で壁面には、爆心地付近から見た被爆後の街並みを約14万人の死没者数と同数のタイルを用いて、爆心地から見た方向に合わせてパノラマで表現されていた。
中央の水盤は、1945年8月6日、原爆投下時刻の「8時15分」を現し、水を求めて亡くなられた方々を追悼するために水を捧げているという。
私は母から聞いた長岡空襲で焼け死んだ大勢の人々のこと、燃え盛る平潟神社から水を求めて栖吉川に飛び込んだ人々の阿鼻叫喚に思いを馳せて、自分が安全な戦後の日本に生まれた『戦争知らない子供たち』の一人、日本人で本当に良かったとつくづく実感した。
ある兄弟の被爆体験記の映像を見ているうちに胸が痛んで苦しくなる。日記などの資料を見てから建物を後にした。
広島の澄み切った秋晴れの青空とは裏腹に言葉を失って、静かな足取りで広島平和記念資料館へと向かい足を進めた。

観光バスで来た団体がいる。コロナ時で入館には予約が必要なのだが、平日なので幸運にも予約なしで入場することができた。
小学生たちの団体に交じって館内を見学する。子供たちが、原爆の恐ろしさ惨禍を見ることの大切さは、多くの子供たちの人間性向上にきっと役立つはずである。
館内に展示された広島の原爆被害の数々の資料や被爆者の悲惨な写真は、目を覆いたくなるような悲惨さと残酷さで言葉にならない。
家族を全て失い、原爆後遺症に苦しみながら、晩年まで強く生きたという老人の写真を見た時には涙が溢れていたが、コロナ感染予防のマスクが、流れる涙をひた隠しにしてくれて、役に立ってくれた。
原爆資料館の2階通路から原爆死没者慰霊碑が見える。現在の美しい公園からは、廃墟の広島は想像もつかない。心から原子爆弾死没者を追悼し、「核兵器のない平和な世界」を望む思いで、胸が一杯になっていた。やはり広島に来て良かったと思った。
1階に降り、被爆75年企画展、「礎を築く」初代館長、長岡省吾の足跡に展示された資料を見学し、建物の外に出て外気に触れ、晴天の青空を見上げると、何故か?気分が高揚し、今、自分が平和な日本に生きている幸福感に感謝したい気持ちが満ちていた。

 私は、広島市内を流れている太田川という大きな川の上流へ、半日探石に行った。初めて行く川、短い時間内では真黒で硬質な良い石を拾えるはずもない。まして長時間のドライブで腰がかなり痛い。だが、初めて訪れた太田川の自然に触れ、リュックサックを背負い、ピッケルで河川の石を掘り起こして、彷徨ことができたので充分満足することができた。探石記念にと、円相の文様石とまあまあ飾れる段石を持ち帰ることにした。
広島に滞在している期間に川崎幸代のことは何度か思い出して気になっていた。携帯電話をじっと見つめたことも幾度となくあった。しかし、結局、私は幸代に一度も電話連絡することもなく、広島の街並みを後にした……。

 広島から帰宅後、数週間が過ぎても、長距離ドライブのためか?腰痛が酷くて体調が悪い。
その日も疲れて、テレビを付けたまま寝入ってしまった。
夜中に家の外から誰か?女の声がする。玄関のドアを開けて外を見るが、外に誰もいない。リビングルームに戻り、ふと窓を見ると、窓から女が覗いている。私を睨むように窓ガラスを叩き、窓をこじ開けようとする。その女の恐ろしい顔を見て愕然とした。
幸代だった。必死に部屋の中へ侵入しようとする怖い形相に、私は恐怖感を感じて思わず「入って来るな、近寄るな!」と叫んだ。
「警察を呼ぶぞ」と言って、携帯電話の番号を押すが、焦って上手くいかない。
ついに窓ガラスが壊れ、女が部屋に飛び込んで私に覆いかぶさって来たので、私は両手で顔を覆って防ごうとするが、右手が痺れて身動きできない。
「誰か助けてくれ」と大声で叫んだ所で目が覚めた。怖い夢だった。不自然な体勢で寝ていたので右手が痺れて、上半身汗でびっしょり濡れていた。いくら体調不良とは言え、何故?変な夢をみたのか?幸代は恐れるような女ではないから、私は理解に苦しんだ。女に対しての未練のなさが災いしたのか?ただ過去への未練が呼び込んだ夢なのか?解らなかった。
26/08/25 17:07更新 / 河志摩 運
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