■ 血の絆U(後編) - (3)
(3)
「とにかく私は景に、16億円を用立てるつもりです」
藤森宗春と嘉一のあいだに、険悪なムードが漂っていた。
執事の津室は、部屋の片隅でかしこまっていた。彼は主人である藤森親子がいかに激しいやりとりをしようと、表情ひとつ変えず、静かに聞いていた。
「それが社員1万人を抱える、大企業の社長の言うことか!肉親の情に溺れて、会社経営が勤まるか!」
宗春は、厳しい口調で息子を叱った。
それに対し、偉大なる父を前に、嘉一は怯む気持ちを奮い立たせていた。
「私は社長である前に、景の父親です。これまで景には、なにもしてやれなかった」
「おまえが、何もしてやれなかったんじゃない。景のほうで、おまえの援助を拒んできたんだろうが」
「景の気持ちをそうさせたのは、私の責任です。私は、彼の母親を見捨てた」
「――」
「景は自立心の強い男です。それにプライドも高い。昨晩、景が私のところに来たとき、おそらく彼は、激しくプライドを傷つけられたはずです」
「しかし、景は借金を頼んだのだろうが」
「自分のためじゃない。会社のために頼みに来たんです」
「だったら、社長の望月に責任を取ってもらったらいい」
父の言葉に、嘉一は苛立って言った。
「それじゃ駄目なんですよ。景は、望月社長を敬愛しています」
宗春は、意地悪く聞いた。
「じゃあ景は、おまえも敬愛しているのか?」
嘉一はうつむいた。
宗春は息子の弱点を見つけて、そこを突いてきた。
「景はおまえを敬愛じゃなく、敬遠してるんじゃないのか?おまえを、父さんと呼んだことがあるのか?きのう景に会ったのは、何日ぶりだ?」
矢継ぎ早に質問されて、嘉一は返事をためらった。それからボソリと言った。
「2年ぶりです」
宗春は、勝ち誇ったように、ほくそえんだ。
「そんなことだろうと思った」
嘉一はキッとして父を見据えた。
「お父さんだって、景のために、テクノ21に融資を持ち掛けたじゃないですか」
宗春は珍しくうろたえた。
「バカ――あれは純粋に投資上の判断だ。今回の不祥事がなければ、テクノ21は、将来有望なベンチャー企業だったからな」
「そうですか――とにかく私は、景に金をだしますよ」
宗春は、はじめて自分に反抗的な態度を取る嘉一を、睨み返した。
「勝手にするがいい。ただし、景はおまえの家で生活するようにさせろ。おまえが父親の情を示すのなら、景も息子の情を示すべきだ」
「それは無理です。そんなこと、景は望んでいない」
宗春は思わずカッとなった。
「だったら、景に金を貸すのはやめろ!」
嘉一は父を睨みかえした。彼は初めて、父親を恐い存在だと思わない心境になっていた。そうなると、不思議に気持ちが落ち着いてきた。彼はきっぱりと言った。
「父さんがなんと言おうと、私は景の望みをかなえます。マリ子のときのような過ちは、二度とやりたくありません」
景は寮の娯楽室の片隅で、研究所長の池田とひっそりと会話をしていた。年配者の温顔を見ていると、暗い気分がいくぶんか和らいでくる。
せっかくの休日だというのに、ほかの寮生たちも心なしかいつもより静かだった。いま彼らの会社は、つぶれるかどうかの瀬戸際に立たされているのだ。
「おーい、景!おじんから電話だぞ」
寮生が、遠くから怒鳴った。
「おじん――?」
景はだれからだろうといぶかりながら、電話のある食堂のほうに向かった。
「もしもし、上原ですが――」
「あ、景くん――坂本だ」
にわかに心臓の鼓動が高まった。
「坂本さん!今どこにいるの?」
「土浦の駅だ」
「ワオ!銀座での話、忘れていなかったんですね」
「でもない。私がこっちに来た動機は、コブつきに頼まれたからだ」
「コブつき?」
景はいぶかった。受話器の向こうから、こら、コブつきとはなんだ、と言う老人の声が聞こえてきた。
「あ、分かった。お父さんですね」
「ピンポーン。がっかりした?」
「すこしね」
そのとき、電話の声の主が変わった。――なつかしい老人の声。
「コラッ!少しね、とはなんだ――神戸でいい思いをさせてやっただろうが。さあ、早く迎えに来い!」
景は寮生の車を借りると、ふたりを迎えに土浦駅まで行った。坂本千秋は髪に白いものが増えたものの、相変わらずの童顔で、子供のようないたずら心も失っていなかった。そして坂本の義父の河合俊郎――たしか77歳になるはずだが――顔艶も良く、小柄な体はいたって健康そうだ。
俊郎がいたずらっぽく言った。
「よう、景くん。きみは私に会って、あまり嬉しそうな顔をしていないようだな」
「とんでもないです。これでも、わくわくする気持ちを押さえつけるのに、すごく苦労しています」
「口だけは達者のようだな。千秋、こんな若造には気をつけろ。送り狼のタイプだ」
千秋がのんびりと答えた。
「その点は私も同感。大丈夫ですよ、景くんといるときは、いつも用心しているから」
景が不服そうに言った。
「千秋さん、それはないでしょう。紳士のぼくに向かって」
「だったらなんで、後期高齢者を神戸で誘惑した。しかも、いやらしいことまでやらせおって」
「あれは後期高齢者が一方的にやったことです。そんなこと言うなら、この前の銀座のことを言ってもいいですか。千秋さんが目茶苦茶ハイになって、オジン同士でデートしていたことを」
「バカ、もう言ってるじゃないか」
「おい、ちょっと待て」
俊郎が割り込んできた。
「後期高齢者ってだれのことだ?それに景くん、きみはいつから千秋をファーストネームで呼ぶような関係になったんだ」
「お父さん!」
千秋が叫んだ。「景とは何の関係もありません。彼が勝手に呼んでるだけです」
それから千秋は、脅すように景に指を突き付けた。
「いいか、私の名前を勝手に呼ばないでくれ。誤解を招くじゃないか」
こんどは景がむくれた。
「だって坂本さんだって、ぼくのことを景って呼んでるじゃないですか。それに、千秋さんって呼んだほうが、可愛らしい響きがありますよ。――ねえ、俊郎おじいちゃん」
「可愛らしいって言うな!」
「おじいちゃんって呼ぶな!」
年取った親子が同時に叫んで、景は思わずあとずさった。
千秋が、通りがかりの人の注目を集めているのに気づいて、冷静に言った。
「とにかく、ここじゃなんだ。どこか落ち着くところはないのか?」
景が即座に答えた。
「いい店があります。鯉料理を食べさせてくれるんです」
3人は、霞ケ浦のすぐそばの、農家のような造りの店にいた。彼らのいる座敷からは、庭先で板前が鯉を生け簀から取り出し、包丁でさばいているのが見えた。
「残酷だな。なんだか鯉が可哀相になってきた」
千秋が顔をしかめて言った。
「わしが釣ってきた魚を、活きが良くておいしいって、食べてたのはだれだ」
俊郎が言って、景が訊き返した。
「あれ、おじいちゃん、釣りをやるんですか?」
「ああ、それもプロ級の腕前だ」
「ははーん」
横から千秋が茶化した。「1匹も釣れなくて、ショボンとして帰ってくることもあるじゃないか」
「千秋、えらそうなことを言うな。おまえは、魚をさばくことができないくせに」
そこで景が、口出しした。
「大丈夫ですよ、魚をさばくことが出来なくたって。そのかわり、千秋さんはテニスがお上手だそうだから」
俊郎が景をにらみつけた。
「おや、きみはえらく千秋の肩を持つんだね。なにか下心でもあるのか?」
「何もありませんよ。ところでトシじいちゃんは、あんなことができるんですか?」
板前が見事な包丁さばきで、鯉の刺身を作っているのを眺めながら、景が訊いた。
俊郎は、いつの間にか若者に、トシじいちゃんと呼ばれていることも気にせず、うれしそうに答えた。
「ああ、あんなふうに魚肉を薄く切るのは、包丁の砥ぎかた次第だな」
「包丁の砥ぎかた?」
「ああ、切れ味鋭く包丁を砥ぐんだ」
それを聞いて、千秋がクスクスと笑った。
「うちの家の包丁は、全部ピカピカだよ。なにしろ暇さえあれば、お父さんが包丁を砥いでいるんだから」
景も笑いながら言った。
「ふーん。トシじいちゃんが包丁を砥いでいる姿を想像すると、なんだか鬼気迫るものを感じるなあ」
3人の見ている前で、板前の持つ包丁が陽光に反射して、キラリと光った。それを見ながら、俊郎が言った。
「包丁を砥ぐのは、なにも料理に使うためだけじゃない。たとえば景くんが浮気して、うちの千秋にけしからんことをやったとする。そんなとき、ナニをチョン切ってやるっていう使い道もあるな」
俊郎は景の顔を見ながら、不気味に微笑んだ。景はギョッとして、思わず両手で股間を押さえた。それを横目に、千秋が冷静に指摘した。
「お父さん、浮気って言っても、景くんはまだ結婚していませんよ」
「この若いのはもう、わしと出来てるんだ。まあ、内縁ってことだ――」
その日、景は、年配者ふたりとのんびりとした半日を過ごして、会社危機の暗い問題を、つかの間、忘れることができた。