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血の絆(後編) - (2)
(2)

まだ肌寒さの残る3月にしては、めずらしく暖かい日差しが軒先に照りつけていた。庭のあちこちで新芽がふくらみ、大地のほのかな息吹を含んだ微風が心地よかった。
藤森喜一郎は、執事が庭にしつらえた籐の椅子に腰掛け、ふたりの曾孫たちが歓声をあげて元気に走り回る姿をながめていた。その曾孫たちには、今日にでも、もうひとりの兄弟が増える予定だった。
彼は、誕生祝いに一郎夫妻が贈ってくれた膝掛けを腰まで引き上げると、気持ちよさそうにあくびをした。
彼は87歳になった今も、フジモリの会長だった。それに、グループ企業の首脳陣で構成するフジモリ会も仕切っていた。それが彼の健康を保つ秘訣だったし、一郎も黙認していた。
そのおかげで、足腰は弱ったものの、たいした病気にもならず、記憶力もさほど衰えていない。しかし彼は最近、もの思いに耽ることが多くなった。たいていは、グループ企業のこと、そして一郎のことだった。

6年前、25歳の一郎をフジモリの社長にしたときは、経済界に爆弾を投じたような騒ぎだった。財界の集まりやマスコミのあらゆる場で話題になった。
喜一郎は、若い一郎を自分の後継者にするという、私情ともとられかねない決断をしたとき、万全のバックアップ体制を敷いた。
実務能力に長け、自分の考えをはっきりと言う重役ふたりを、副社長に据えたのだ。一郎と親交のある伊藤英之も相談役にした。彼は一郎を信じていたが、心の片隅では、経験もなく権力を握った若者が、暴走するのを恐れていた。
表面上は穏やかだが、こうと決めたら決して妥協せず、自分の意志を押し通そうとする、一郎の性格をよく知っていたからだ。
しかし、彼の心配は杞憂に終わったようだ。彼自身が、何十年もかけて暗中模索しながら得てきた、組織を動かすノウハウを、一郎はわずか数年で会得した感があった。
一郎には、若いときから多くの財界人たちと交流する機会にめぐまれていたが、そんな環境を割り引いても、生まれながらにして持つ、指導者の才覚があったようだ。
喜一郎からみれば、一郎はまだまだ青臭いところがある。しかし今や、社内に限って言えば、彼を超えた存在になろうとしていた。
そのことは、喜一郎も素直に認めていた。

一郎には、自分にたいする諫言を社内の人間に求め、それを謙虚に受けとめる度量の広いところがある。
慣習にとらわれない自由な発想と柔軟性、それに割り切った合理性は、旧世代の喜一郎にはとまどうところがあった。
普段は、飄々として育ちの良さだけが目につく人道主義者が、一方では、不合理な部分をあっさりと切り捨てる冷徹なところも見せた。
いつだったか、一郎が社内で一度だけ、怒りをあらわにしたのを目撃したことがある。
フジモリの全役員の集まった、取締役会の席上でのことだった。
住宅用地の長期化した開発案件について、その企業担当の重役が報告をしていた。報告が終わると、一郎がいくつかの鋭い質問をして、担当重役がしどろもどろに返答した。
その様子を見ていた喜一郎は、何かあるなと感じていた。一郎の質問は、事前に周到な調査をしていなければ分からない、細部のことに及んでいたからだ。
喜一郎は最高責任者だったが、実質の経営は一郎に任せていたので、具体的な内容は知らなかった。しかし、話を聞いていて、彼にも事情はのみこめた。
長期化して行きづまった計画を、その重役は立場上中断するわけにいかず、新たな投資で強引に続けていこうとしていたのだ。
一郎が爆発したのは、その時だった。
重役がくどくどと説明する途中で、一郎はすっと立ち上がると、その場にいる年配の役員たちが、思わずすくみ上がるような鋭い声で、その重役を一喝した。
「バカ者!いいかげんにしろっ!」
それから彼は、稟とした声で話しだした。
「この計画をこのまま進めれば、尻拭いをするのは後進の社員たちだ。そのことは、あなたもよく分かっているはずだ。状況を客観的に見て、冷静な判断もしないで面子にこだわるとは、経営者と言い難い。ましてや事実を歪めて、ほかの経営陣の判断を惑わすような報告をするとは、もってのほかだ!」
そして最後に切り捨てるように言った。「この案件は棄却する。皆さん、よろしいか?」
一郎は、その重役を即刻首にした。次の日から、一郎のことを育ちのいいだけの御曹司社長だと思いこんでいた、フジモリの重役たちの見方が変わったのも、事実だった。
喜一郎は、自分と一郎の経営的なやり方を比較した。一郎の、何事につけてもオープンで民主的なやり方は、彼の理解しがたいところであった。しかし少なくとも、方法の違いはあれ、必ず目的を達成させるところは共通点があった。
一郎は社内で、企業人である前に、一個人として『モラルと責任』を持て、ということをスローガンにしていたが、その標語は喜一郎にとって、多少うしろめたいものだった。

「じいじ、眠ってるの?」
子供の声に、喜一郎は目をあけた。
4歳になる曾孫が、彼の顔を下から覗き見ていた。澄んだ無邪気な目が、一郎そっくりに喜一郎の目をまっすぐに見つめている。どうやら、うたた寝をしていたようだ。
曾孫は、喜一郎が目をあけたのを見て、無邪気に目を輝かせた。
「あ、じいじが目をあけた」
「おお、トシくん。じいじを起こしてくれたのか。いい子だ」
喜一郎は微笑むと、曾孫を抱き寄せた。子供の体は小さく、抱いていて気持ち良かった。
「ねえ、じいじ」
曾孫が、喜一郎の腕の中で話しかけた。「モラルって、なあに?」
「モラル?トシくんは、難しい言葉を知ってるんだねえ」
「だって、パパがいつも言うの。モラルを大切にしなさいって。ねえ、モラルって、なあに?」
「それはねえ――正しいことをしようっていう気持ちのことだよ」
「正しいこと?」
曾孫はしばらく考えていて、それから聞いた。
「ねえ、じいじは、モラルを大切にしているの?」
喜一郎は、即座に返事をすることをためらった。曾孫の澄んだ瞳が、まっすぐに彼の目をみつめ、返事を待っている。
喜一郎は、まるで一郎に見られているような錯覚を覚えた。
気を取り直して彼は、これまで幾多の交渉の場で使ってきた、相手の心を蕩かす微笑みを浮かべると、幼い曾孫にむかって言った。
「もちろん、じいじはモラルを大切にしているよ。トシくんだってそうだろう?」

若林博見はベッドに横たわり、心地良い疲労感を覚えていた。ほっそりとしていた肉体が、今やうっすらと脂肪がついて、ふくよかさを増している。特に柔らかい曲線を描く腰から尻にかけて、ウケの男の色気がそこはかとなく滲み出ている。
そこに藤森一郎が、全裸であらわれた。熱いシャワーを浴びたばかりなので、全身、赤く染まっている。その剥き出しの股間を見て、博見は新たな欲望を覚えた。
一郎は下着を身につけながら、ベッドに横たわる年配者の体を眺めた。
「ヒロやん、最近、貫禄がついてきたね」
博見はけだるそうに、上半身を起こした。
「やっぱり、イッちゃんは優しい。太ったってストレートに言わないから。でも私はもう55歳だよ。脂肪がついても仕方がないさ」
「そう、ヒロやん、55歳になるんだ」
「そう、光陰矢の如し。伊藤のお父さんだって、74歳だよ」
博見は世界経済社に復帰して、編集長をやっていた。彼と同棲している伊藤英之は、フジモリの相談役を2年間勤めたあと退職し、今や悠々自適の隠居生活を送っている。
こうして一郎が訪れたとき、伊藤は二人に気を遣って、何かの用事にかこつけて外出するのだ。それを可哀想に思って、一郎は、伊藤とも親密な時間を作ろうとするのだが、その機会は限られていた。
こうなると一郎は後悔していた――もっと伊藤を相談役にとどめておくべきだった、と。老人が相談役のころは、仕事にかこつけて一緒に外出して、二人だけの親密な時間を作ることができたからだ。

博見は身づくろいを整えると、コーヒーを入れるためキッチンに入った。その間、一郎は食堂のテーブルで新聞を読んでいた。
博見はコーヒードリップをセットしながら、一郎に話しかけた。
「そういえば、伊藤のお父さんが言ってたけど、聡くんは明るい表情になったって。もうすっかり治ったのかしら?」
一郎は新聞から顔を上げて、返答した。
「ああ、もう大丈夫だと思うよ。もともと頭のいい人だ。彼の経理知識のおかげで、湯浅は大いに助かっているようだ」
荒川高志が死ぬ直前に言ったことを、一郎は忘れていなかった。父親を殺された石川聡を鎌倉の家に引き取り、執事をやっている湯浅の助手にしたのだ。
「それは良かった。石川さんも草葉の陰でひと安心だね。聡くんは何歳になったの?」
「ぼくより4つ上だから、35歳になる」
「ふうん。結婚していていい年頃だな。――それとも、私と同じで、男色に目覚めちゃったとか」
「――」
博見は冗談で言ったつもりだが、反応が無かったので、そっと振り返った。一郎は微妙な表情をしていた。それを見て即座に悟った、一郎と石川聡の関係を。聡の初心っぽい顔立ちとふっくらとした肉体を思えば、ありうることだった。
(おやまあ、イッちゃんも元気の良いこと。人はへそから下に人格は無いって言うけど)
博見は内心、苦笑したが、それ以上追求しなかった。
いっぽう、一郎のほうは複雑な心境だった。石川聡と接する機会が増えて、いつしか聡とも男色関係になっていた。
一郎は妻を愛していたが、それは男女の愛というより、家族の愛と言うほうが近い。夜の行為も、愛の交歓というより、もっと原初的なもの――子孫存続の意味合いが強かった。唯一、彼が心から愛した女性は、死んだ藤井蓉子だった。彼女を除けば、彼が愛情を覚えるのは、彼の好みに合致する年配男性たちだった。
これでは、死んだ父と同じだった。男女の違いはあれ、気に入った相手と節操もなく肉体関係を結ぶ――。こんなことでは、一郎が標榜しているモラルなどあったものではない。
それでも、自分を抑えることが出来なかった。こんこんと湧き出る泉のように、彼の精力旺盛ぶりは尽きるところを知らなかった。そして浮気性――彼は認めたくなかったが、この性質は父親譲りのもののようだった。

一郎の携帯電話が鳴った。北沢爺からだった。
「もしもし――」
「あ、若さま!お生まれになりました。――お嬢さまです」
爺の弾んだ声が聞こえた。
思わず涙がこみ上げてきた。博見がキッチンからこちらを見ている。一郎は博見に向かって、3本指を立てた。
「――もしもし、若さま、今どちらでございますか?――こちらには、いつ、戻って来られますか?」
一郎は、少し口ごもった。
「ああ、出来るだけ早く行く。――仕事が終わったらな」
一郎が電話を切ると、博見がいたずらっぽく笑った。
「仕事が終わったらな――か。なんかイッちゃんも、したたかになってきたね」
「それは――社長業を続けていれば、したたかにもなるさ」
「それで、もう名前は決めてるの」
一郎は即座に答えた。
「蓉子――女の子なら、蓉子と決めていたんだ」
                    
                    完

(あとがき)
長い物語を最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。
次は『血の絆』第2弾として、藤森家のもう一つの家族のお話をします。まだ予定は立ちませんが、ゴールデンウィーク頃までにはアップしたいと思っています。
                                 三爺代表 神亀
[18/02/09 01:06 閑名三爺]
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