目 次
血の絆(後編) - (2)
(2)

一郎は自室で、ぼんやりと学習机の前に腰掛けていた。彼が高校を卒業するまで慣れ親しんだ机は、手入れが行き届いて、他人のもののように思えた。
彼は自分の若い頃の痕跡を求めて、室内を見渡した。
壁に二枚の絵が額縁にいれて架けられている。中学生のときに表彰をうけた絵だ。地味な色彩使いで、まるでいまの気持ちにピッタリだ。
一方の壁は、全面が書籍棚になっているが、半分のスペースはトロフィーや盾で占められていた。父親を喜ばせようと、陸上競技に熱をいれていた時代の名残りだ。彼はほろ苦い思い出にひたった。
そのとき、ドアがノックされ、祖父の喜一郎が部屋に入ってきた。彼はベッドの縁に腰掛けると、黙って一郎を見ていたが、やがておもむろに言った。
「私にどうしてほしいんだね?」
「べつに――なにもしてほしくない。あなたの顔を見たくないだけです」
喜一郎は黙り込んだ。彼はしばらくして顔を上げると、静かに話しだした。
「私は生き残るために、いろいろの権謀術策をめぐらせてきた。これまでの一連の事件も、もとはといえば、それが原因かもしれん。しかし私は、言い訳をしない。ただ、私の話を聞いてほしい。お前も親しい人たちを失った。だから、事実を知っておく権利があるだろう」

太平洋戦争が終わって、まだ敗戦の混乱期が続いているとき、喜一郎は鎌倉の実家を離れて東京に出てきた。学校制度が変ったばかりで、東京の大学に入学したのだ。
東京の街は戦災から復興しつつあった。喜一郎は、父が新築した小さな一戸建てに住んだ。使用人の中年女性が、賄いをしてくれた。
ある日、喜一郎は、裏庭に潜むひとりの子供を見つけた。垢で黒ずんだ手足とボロ布をまとっていた。当時、戦争孤児はあちこちで見られたので、特段驚かなかった。
その少年は小柄な体つきをして、顔も愛くるしい表情をしていたが、強い精神力を感じさせた。その少年が岩井だった。
喜一郎は少年に食物を与え、事情を訊いた。少年は最初のうち警戒していたが、気を許したのか、ポツリポツリと話し出した。
少年の話を聞いて、喜一郎は驚いた。少年は両親が死んで、引き取られた先の叔父を包丁で刺して、逃げたと言うのだ。
どうやらその叔父は男色者で、12歳の少年をむりやり手込めにして、そんなことが何度も続いている内に、我慢できなくなって叔父を刺したのだ。
喜一郎は、少年の境遇に同情し、自分の家に住まわせた。風呂に入れ、服を買い与え、身奇麗にさせた。喜一郎は、何となく自分に似た雰囲気を持つ少年に、他人事とは思えなかったのだ。
少年は喜一郎の家で4年間生活した。その間、勉強を教えたり、遊びに連れていったりした。喜一郎には弟がいたが、少年も実の弟同様に扱った。

ふたりは別れた後、喜一郎は経済界で、そして岩井は裏の世界で、それぞれの地位を築いていった。
小柄な岩井は、暴力世界の中で、肉体的劣勢を補って余りある度胸と知恵を持っていた。彼は喜一郎に恩義を感じ、何かことが起きれば喜一郎の手足となって働いた。
ふたりは、ある種の相互扶助の関係を保ってきた。喜一郎が合法的に解決できないことは岩井が手を染め、喜一郎は見返りとして彼に資金援助をした。
彼らは慎重に行動した。財界の立て役者と、ヤクザの大親分が親交のあることが明るみに出れば、マスコミの格好の餌食になるからだ。

しかし彼らの友好関係は、喜一郎が息子の伸郎を岩井に引き合わせた頃から、微妙に変化した。伸郎は、難行していたレジャーランドの開発で岩井の力を利用したが、商取引では厳格すぎた。伸郎は、仕事の見返りに債務保証した岩井の地上げ物件がこげついたと知るや、その土地をすぐに処分しろと岩井に迫った。
結局、喜一郎の仲裁で、フジモリが欠損の50億円を肩代わりし、岩井のほうは数年間のただ働きに終わった。
それ以来、伸郎と岩井の関係は険悪なものとなった。また一方で、喜一郎はことが表面化するのを恐れ、岩井をなだめるのに苦労した。

そんな矢先に、伸郎が航空機事故で死亡した。
伸郎の葬式のあと、喜一郎と岩井は極秘の会合を持った。そのとき喜一郎は、フジモリの後継者の話をした。彼は後継者を一郎に決めていた。
しかし喜一郎は老齢で、一郎はまだ若すぎた。もしも一郎が跡を継ぐ前に喜一郎が死んだなら、司郎か芳郎が一郎にとって代わるかも知れない。それが心配だ。
そんなことを喜一郎は、軽い気持ちで岩井に言ったのだ。
しかし、岩井の受けとめかたは違っていた。彼は独自に計画を練り、芳郎や司郎を殺していった。
そのことを知って、喜一郎は仰天した。まさか自分の言ったことが原因で、岩井が殺人を実行しようとは。そして、岩井の部下の勘違いとはいえ、一郎が銃撃されたときは、心底震えあがった。
彼は岩井に連絡をとり、これ以上、藤森家に関わるのをやめろと言った。それ以来、彼らは連絡を取り合っていなかった。

話が終わると、喜一郎はきゅうに老けこんだようすだった。
ふいに一郎は、老人の孤独を感じた。しかし、あえて冷たく質問した。
「あなたが岩井の犯した殺人に気づいたのは、いつですか?」
「岩井が刑務所から出てきたとき――去年の10月頃だ」
「それで――あなたには責任がない、と思っているわけですか?」
「――」
喜一郎はうつむいて、黙っていた。
「あなたは、まだぼくに話していないことがあるでしょう?」
喜一郎は顔をあげて、一郎の顔を見た。
「私は――お前に全部話したつもりだ」
「国会議員の梶岡のことを忘れていますよ。あなたは裏献金で梶岡を潤し、見返りとして非合法な便宜をはからせた」
「隠すつもりじゃなかった――確かに、お前の言うとおりだ」
「それに、依田常務のこともあります。あなたは70億の融資で、岩井の手助けをしようとしたが、直接には手を染めたくなかった。だから依田を利用した。肉欲の罠をかけ、小心者の依田を追いつめた――」
「彼らが依田にどんな手を使ったか、私は知らん」
「問題なのは手段じゃない!なにが目的だったのか、あなたの心が問題なのですよ」

喜一郎は、孫が自分を他人行儀な呼び方に、変えているのに気づいていた。彼を見る孫の目は、まるで他人を見るように冷たかった。彼はそのことが耐えられなくなっていた。
「私のことを、そんな目で見ないでくれ。それに、あなたと呼ぶのはやめてくれないか。お前にそんな呼び方をされると、私はたまらん。いつものように、お祖父ちゃんと呼んでくれ」
「いいかげんにしてくれ!」
一郎は叫んだ。「あなたは、ぼくのお祖父ちゃんじゃない。――父親じゃないか!」
それを聞いて、急に喜一郎の体から力が抜けた。
「お前は――そんなことまで、知ってしまったのか――」
「隠し事は、遅かれ早かれ分かることですよ」
「――」
「ぼくは子供心に、父さんの歓心を買おうとしましたが、いつも父さんは、ぼくを冷たく見ていた。それも理解できますよ。ぼくは父さんの本当の子供じゃなかった。そして父さんは、そのことに気づいていたんだ」
一郎は、椅子から立ち上がった。
「高志兄さんは、息を引き取るときに言いました――殺された元警官の息子を頼む、と。ぼくが好きだとも言った。彼は、自分が藤森家の血を引いた人間だということは、とっくに知っていた。だけどあの人は、誰にも言わなかった。名乗り出れば、莫大な財産が手に入ることも分かっていたのに」
彼は喜一郎の顔を、哀れむように見おろした。
「世の中には、損得抜きで、自分の愛する人のために行動する人間もいるんですよ。その人にとっては、権力も金も重要じゃないんだ。ましてや、自分だけいい目を見ようなんて、みじんも思っていない。ぼくもそんな人間の端くれのつもりです」
一郎は部屋を出ていこうとした。
「一郎――そんな目で私を見ないでくれ――」
喜一郎はささやくように言った。「私を見捨てないでくれ――いや、私のためじゃない。フジモリのために――」
一郎は振り返った。
「フジモリがなんだって言うんですか。ぼくは、愛する人のために行動するって言ったでしょう。ぼくは、母さんを愛しています。そして――お祖父ちゃんも」

若林博見は食事の後片付けをしながら、伊藤英之の様子が気になっていた。なにやら思い悩んでいるようすだった。
そのあとお茶を飲みながらのくつろいだひとときに、愕然とするニュースを英之から聞いた。荒川高志が死んだと言うのだ。
博見が藤森家と関わることになった、最初の人物だった。
と同時に、藤森一郎のことが気になった。
博見は、伊藤英之とベッドを共にするようになって、一郎のことはとっくにあきらめていた。それでも忘れられなかった。一郎が、あけぼの銀行の頭取の孫娘と一緒のところを、暴漢に襲われたのは聞いていた。幸い彼は一命をとりとめたが、いっしょにいた女性は死亡した。その前は、一郎の近親者があいついで死んだ。まるで藤森家は、呪われているようだった。
だけど、一郎だけは無事でいてほしかった。彼は父親との葛藤に悩みながら、そんなことはおくびにも出さなかった。いや、出していて、本人は気づかなかったのかも知れない。心をなごませる一郎の笑顔や、のんびりとした声がなつかしかった。
そのとき電話が鳴った。
いつものように伊藤が電話に出て、慎重な口ぶりで言った。
「はい、伊藤ですが――」
伊藤は言葉少なに、しばらく応対していた。
「――はい、お受け致します。お世話になります」
最後に言って、伊藤は電話を切ると戻ってきた。その表情は、どういうわけか、嬉しそうだった。
[18/02/07 08:01 閑名三爺]
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