■ 血の絆(後編) - 第8章 迫り来る危機
(1)
一郎は若林博見を助けだしたあと、彼を神戸にある伊藤の家に預けた。博見はこれまで経験した恐怖と屈辱に、混乱状態に陥っていた。警察に届け出ようとしたが、それを否定する博見の意志を尊重してとりやめた。
荒川高志には連絡がとれなかった。驚いたことに、勤め先のフジテレビには高志から退職届が出されていた。そして石川尚のほうも、まったく音信不通だった。
頼りとなる二人と連絡が取れなくて、八方ふさがり状態だった。
一郎は仕方なく、自分でできる調査をつづけた。それとなく、70億の無担保融資の件を祖父に聞いたが、祖父は相手にもしてくれなかった。会社には表に出せないことが、いくらでもあるんだと言って。
ある日の夕方、一郎は経理担当常務の依田を誘って、会社の利用する料亭に行った。
ひっそりと静まり返った一室で、ふたりは会食をした。依田は、いかにも品のよい面長の顔をした、物静かな紳士だった。彼は一郎が年下にもかかわらず、やや緊張していた。
店の従業員が引き下がると、一郎は単刀直入に融資の件を質問した。
依田は最初のうち、一郎の質問に驚いたようすだったが、そのうち、のらりくらりと返答しだした。全然、一郎の質問にたいする返答にはなっていなかった。
一郎は鋭く問題点を指摘し、KT興産との関係を詰問した。
ついに、依田は上品な口元を震わせ、黙り込んでしまった。
これ以上、何を言っても無駄だった。
一郎はカッとなって、話す気がないのなら、あなたの責任でKT興産の融資の件は片をつけろ、と言い放って席を立った。
次の日、一郎は社長室に呼ばれた。祖父は融資の件は私が解決する、とさりげなく言ったあと、付け加えた。
「こんどの日曜日に、あけぼの銀行の藤井頭取の自宅に行く。一郎、お前もつきあえ。会わせたい人がいるんだ」
「あまり乗り気がしないな。会わせたい人って女性でしょう。ぼくは、お祖父ちゃんと好みが違うんだよ」
喜一郎がめずらしく声を荒げた。
「一郎!あけぼの銀行は、うちのグループ企業の大得意先だぞ。遊びじゃないんだ」
「分かりました。行きますよ」
一郎は、しぶしぶうなずいた。これまでも彼の祖父は、何人かの女性を一郎に紹介していた。どの女性も、富と地位に恵まれた名門の出だった。彼は祖父の顔を立てて、一度は女性たちと顔を会わせたが、二度目に会うのはことごとく断っていた。
一郎にとって性的欲求を満たしてくれるのは、年配男性しかいなかった。伊藤英之が神戸に戻り、若林博見も伊藤のもとに行った。今、一郎の慰めになるのは、北沢爺しかいなかった。
しかし彼は、祖父に対して、そんな事情はおくびにも出さなかった。
次の日曜日、一郎は祖父につれられて、藤井頭取の家に出向いた。
藤井の屋敷は、シックな二階建ての鉄筋コンクリート造りで、田園調布の閑静な住宅地にあった。
藤井は恰幅のよい老人で、彼の年齢にしては驚くほどつややかな肌艶をしていた。彼は財界の友をにこやかに出迎え、その孫の一郎にうなずきかけた。彼は息子夫婦と同居していたが、夫婦は外に出かけていた。
初めてその女性を見たとき、一郎は雷に打たれたような衝撃を受けた。
20歳そこそこだろうか、日本女性らしい卵形の顔と、しなやかな黒髪、そして抜けるように白い肌は、つややかな張りがあった。すべてが弾むような若さで溢れていた。
一郎は、その女性が部屋に入ってきたときから、呆然として見つめていた。彼女はお茶をテーブルの上に置くと、恥ずかしそうに一郎のほうをチラリと見た。銀杏形の、黒く、生き生きとした瞳をしていた。
藤井が微笑みながら、彼女を紹介した。
「孫の蓉子だ。おてんば娘で困っている」
蓉子がいたずらっぽく藤井をにらみ、一郎たちに向かって神妙にお辞儀をした。
「それから、こちらは藤森一郎くんだ。藤森会長は前に来られたことがあるので、知ってるな?」
一郎は娘にむかって、ぎこちなく頭を下げた。
若い二人を見ながら、藤井が言った。
「一郎くん、年寄りたちといると退屈だろう?蓉子も暇を持て余しているようだし、どうだい、ふたりでどこか遊びに出かけては?」
一郎は、そっと彼女のほうを見ながら言った。
「ぼくは大歓迎ですが、蓉子さんは迷惑に思われているんじゃないですか?」
「いえ、私――」
彼女は恥ずかしそうに首を振った。「おつき合いさせていただきます」
出かけるふたりを見送りながら、藤井が言った。
「一郎くん、あまり遅くならないうちに、蓉子を帰してくださいよ。これの両親は心配症だからね」
ふたりは読売ランドに行った。
最初のうち、蓉子は緊張ぎみで口数も少なかったが、乗り物などに乗っているうちに、徐々に緊張がほぐれてきて、無邪気にはしゃぎだした。
彼女は恐いもの知らずで、ジェットコースターなどスリルのある乗り物を、自分から進んで乗りたがった。
一郎はこれまで、若い女に興味が湧かなかったが、蓉子の性格が分かるにつれ、少しずつ魅きつけられていた。彼女は口数が少ないぶん、体を動かすことが好きで、無邪気な心をもつ女性のようだった。
おそらく普段は、家庭で厳しく育てられているのだろう。その反動で、今は底抜けに明るく、子供のようにはしゃいでいた。
一郎は乗り物の中で、ふとした拍子で蓉子の体に触れたとき、衣服越しにも肉感的なみずみずしい弾力を感じて、激しい性の渇望を覚えた。それは、これまで女性に対して感じたことのない欲望だった。そんな彼の想いにまったく気づかないのか、彼女は無邪気にしがみついてくる。
2時間ほど立てつづけに乗り物で遊んだあと、ふたりは園内のレストランで軽いスナックをとった。そのころには、蓉子はすっかりくつろいで、一郎に気を許してしゃべるようになっていた。
「きみは、遊園地によく来るのかい?」
「いいえ、母があまりいい顔をしませんから。でも小さいときは、両親とよく来ていました」
「遊園地は好きかい?」
「大好き。おかげさまで、ほんとうに楽しいひとときを過ごせました。あのう――私、はしゃぎすぎちゃって――ご迷惑ではなかったかしら」
「全然。おかげさまでぼくも、久しぶりに童心に戻ることができたよ。大学では、なにかスポーツをやってるの?」
「スポーツクラブに入るのは母に止められて、やっていません。でもスキーやドライブは大好きです」
「ふーん。お母さんは厳しいのかい?」
「とても」
彼女はいたずらっぽく肩をすくませた。「お茶、お華、ピアノ、すべて母の言いつけでやっていますわ」
「習い事はあまり好きではないのかい?」
彼女はそっと笑った。
「どうしたんだい?」
「だって、一郎さんったら、さっきから質問ばかり」
「こりゃあ失敬。ところでどうだい、こんどの連休にスキーに行かないか?蓼科に別荘があるんだ」
「素敵!ぜひ連れてってください」
「お母さんは反対しないかい?」
「一郎さんとご一緒なら、絶対に反対しません。それに、おじいさまはあなたのことを、とても誉めていましたわ」
「藤井頭取が――ぼくはあのかたに、ひどい恥をかかせたことがあるんだがな」
「なんですの?」
蓉子が、にわかに興味をもって聞いた。
「以前、財界の大きなゴルフコンペがあってね。ぼくの祖父が主催者として参加する予定だったけど、急用ができた。そこで急遽、ぼくがかわりに参加したんだ。主催者は挨拶をしたり、賞品の授与をしたり、という役目があるんだけど、それを祖父のかわりにぼくがやるつもりだった。ところが、きみのおじいさんからクレームがついてね。ぼくが若すぎると言うんだ。
たしかに、コンペの参加者は、ぼくをのぞいて全員50歳以上の、錚々たるお歴々ばかりなんだ。それを20代の若造が取り仕切るなんて、もってのほかだってね」
蓉子が心配そうな顔をしたので、一郎は安心させるように彼女の手を取ってほほ笑んだ。
「ぼくは、ちょっとムカッときたので、きみのおじいさんに言ってやったんだ。日本人が社交で国際レベルになりきれないのは、なぜだとお思いですか?それは、肩書きに安閑とした年寄りたちが幅をきかせて、後進の者に道を譲らないからですよ、と」
彼女は手を叩いてほがらかに笑った。
「それで――そのあと、どうなったんですの?」
「もちろん、ぼくが主催者の役目を無事にこなしましたよ」
「なんだか、そのときの祖父の顔が、目に浮かぶようですわ」
彼女は笑いころげて、声を出すのがやっとだった。
刑務所から出たあと、荒川高志は石川尚に連絡をとった。
何度電話してもだれも出なかった。石川の家に行ったが、家には鍵がかかっていた。隣の家で聞くと、この一カ月近く石川親子の姿は見ていないと言う。彼はつぎに、藤森一郎に会いに行った。
一郎は、不正融資の件での依田とのやりとりを話した。そして、石川とは連絡がつかないと言った。
一郎は話しながらも、久しぶりに会った高志の変わりようを心配していた。それほど高志は、刑務所暮らしで変わっていた。わずか一カ月の間に、ほほが削げ、目つきが鋭くなって、別人のようだった。
高志はじっくりと考えた。若林博見の拉致事件、それに今は、石川親子も行方不明。刑務所で会った岩井組会長の、好々爺然とした顔の裏に隠れた冷酷さ。一郎にこっぴどくやられた国会議員の梶岡。そしてKT興産への不正融資――。
彼は、陰謀の強大な力を感じていた。これ以上、坊ちゃん育ちの一郎を巻き込むのは危険だった。
高志は別れ際に、一郎に言った。
「一郎くん、きみはもう動くな。あとは石川さんと私が調査する。なにか分かれば、きみにも知らせるよ」
「でも、石川さんはどこにいるんですか?」と一郎が訊いた。
高志は嘘をついた。
「じつは、彼はあるところで、隠密行動をとっているんだ。私とは連絡を取り合っている。だからきみは心配するな」
「でも――荒川さんは、フジモリテレビを辞めたんでしょう。それに刑務所まで入った。どうして、そこまで調査をつづけるんですか?」
高志は肩をすくめると、安心させるように言った。
「友人のためさ。きみや石川親子は、私にとって大切な人たちだ。それに、私が物好きだということもあるかな」
高志は一郎と別れると、自宅に戻ってこれからの計画を練った。さしあたっては、石川の足取りをたどることだ。それから、いざというときの準備もしておく必要がある。なにか武器になるものが必要だ。
そのとき彼は、アメリカのポール・フェイガンが、ある爆弾のことを話していたのを思い出した。ポールは建設会社に勤めていて、ビルを爆破して解体するプロだった。彼はパソコンを使って、ポールにメールを送った。