■ 血の絆(中編) - (3)
(3)
一郎は、会社の仕事がおもしろくなってきた。彼の肩書きは社長秘書となっていたが、給料など社内の等級的には、新入社員と同じだった。
しかし、彼には特権が与えられていた。全ての重要会議に、出席することができるのだ。いつも社長兼会長の祖父の背後に腰掛け、黙って会議の進行を見守った。
会議が終わると、祖父は一郎に感想を訊くことがあった。
一郎が見当外れの意見を言うと、祖父は鋭く過ちを指摘し、どこがどう違うかを根気よく教えてくれた。
これまでは祖父とプライベートな話題しか口にしなかったが、こうして会社で、仕事上のいろいろなことを話し合うにつれ、一郎は祖父の偉大さにあらためて気づいた。
祖父の話は奥が深く、しかも広範囲の視点でものごとを考えていた。
それに80歳に近い年齢なのに、記憶力はまったく衰えを見せていない。彼の頭脳の中には、これまでの膨大な経験がきちんと整理され、必要なときには即座に引き出されるようだった。
その祖父を頼って、多くの財界人や政治家たちが、毎日のように訪れていた。
一郎には、祖父のいる社長室のふたつ隣りに、専用室が与えられていた。前に祖父が会長のとき使っていた部屋だ。
最初のうち、豪華な部屋をひとりで使うことに、なんとなく気が引けていた。
祖父と一緒でないときは、デスク上のパソコンを使って、フジモリやグループ企業の各種データを調べた。彼にはどんなデータにもアクセスできる、コードが与えられていた。彼は人から教わる以上のことを、パソコンから得ることができた。
ときどき、一郎がある企業の業績や課題をすらすらと話して、祖父が驚きの目で彼を見ることがあった。それがまた嬉しくてますますパソコンを使ってのデータ分析に熱中した。そのことだけが、祖父に対して、一郎が優位に立てることだった。
また一郎は、祖父に同行して、グループ企業を訪問することが多かった。彼らの会社規模は、大株主のフジモリよりはるかに大きかった。
フジモリは、本社ビルの3フロアをオフィスとして使用し、あとは関連会社に使わせていたが、主要なグループ企業は、殆どが大型ビルを一棟、丸ごと使用していた。しかも彼らは、国内外に多くの支店網を張り巡らせているのだ。
そんな大企業にたいしても、一郎の祖父の影響力は大きかった。行く先々で、どの企業の重役たちも、一郎の祖父に対してうやうやしく接していた。まるで封建時代の君主にたいする臣下のようだった。
「なんで彼らは会長にたいして、もっとざっくばらんな話し方をしないんでしょうか?彼らだって、大企業の最高責任者なのに」
あるとき一郎は、祖父に訊いた。彼は公用のときは、祖父のことを会長と呼んでいた。
祖父は、おもしろそうに一郎の顔をながめた。
「彼らは、私の個人的な歴史にたいして、敬意を払っているんだろう」
「と言うことは、会長が歴史のある年長者だから?」
「お前、私を骨董品のように思っていないか?年を取るだけじゃだめだ。権威を身につけないとな」
「だけど、彼らの態度は権威を前にしてではなく、権力を前にしているように見えますよ。権威に対してなら、もっと心の通いあう、ざっくばらんさがあってもいいと思うな」
「それは彼らの問題だ。私はべつに、権力をひけらかしているつもりはない」
一郎は、そうは思わなかった。
たしかに祖父は権力を誇示するわけではなかったが、相手のレベルに下がってやる心遣いもなかった。そのことが、かえって相手に圧力を与えて、偉大な経済人を前に、萎縮してしまうのだ。
そんな中で、ハイテク企業であるフジモリ電子の川勝会長だけは、祖父にたいしても物怖じせず、ざっくばらんな態度で接していた。
彼はでっぷりと太った体型で、人をくったようなとぼけた味と、尊大さが入り交じったような老人だった。一郎は川勝会長をみるといつも、神戸時代の太田医師を思い浮かべた。それほどふたりは雰囲気が似ていた。
「ほう、きみが会長のお孫さんですか。さすが会長に似ている。なかなか立派な青年だ。会長も将来がお楽しみですなあ」
喜一郎は嬉しさを押し隠して、平然と言った。
「なあに、これからどうなるか分からん。まだ原石だからな」
「しかし、会長の血を継いでいますからな。あとは磨きかた次第ですかな」
老人たちふたりが、一郎のことをまるで石のように言うのを聞いていて、一郎は退屈そうにしていた。
それを見て、祖父が一郎に向かって言った。
「なんだ、一郎。なにか言いたいことがあるのか」
「いえ、とくに――」
「いや、その顔はなにか言いたそうだ。お前がそんな表情をするときは、なにか腹に一物持っているときだ」
「一郎くん、遠慮なく言いたまえ。もの言わぬは腹ふくるる技なり、と言うだろう」
向かいから川勝会長が言った。
一郎はしかたなく言った。
「いえ、私が石なら、皆さんはなんだろう、と思いまして――」
「ほう、私たちはなんだ?」
喜一郎が訊いた。
一郎は黙っていた。彼の顔を観察していた祖父が、かわりに言った。
「おそらく私のことを、ずる賢い二十日ネズミくらいに思っているんだろう?」
一郎は驚いて祖父の顔を見た。
「どうしてわかったんです?」
「馬鹿正直なやつだ。すぐ誘導尋問に引っ掛かりおって。秘書たちにそう言ってたのは、やはりお前だったんだな」
ふたりのやりとりを聞いていて、川勝が笑った。
「それで、一郎くん。わしはなんだね?」
「――古ダヌキ」
一郎は思わず言っていた。
一郎は、グループ企業内にいる自分の親族たちにもあった。
三友銀行の会長である藤森宗春は、祖父の実弟だった。宗春は祖父とうりふたつなほど似ていた。しかし似ているのは外見だけで、性格的には違うようだ。一郎の祖父に比べ、宗春の方がおっとりとして温厚そうだった。
それに輪をかけて温厚なのが、宗春のひとり息子の藤森嘉一だった。嘉一は三友商事の社長だが、大企業の経営者というより、人のよい親父というイメージのほうが強かった。
また一郎は、ときどき祖父に連れられて、経団連のビルにも行った。
ここには財界の有力者たちが、ひとときのくつろぎを求めて集まり、軽い雑談の中にも情報を交換し、利用できる新たな交友相手を探す場所だった。
一郎は、祖父がなぜここに彼を連れてきたのかは分かっていたが、この場所があまり好きになれなかった。ここにくる人間は、みな経済界の地位をきわめ、財力を成し、権力を握った年配者ばかりだった。
彼らは自分の会社の利益だけを考え、限りない経済欲をもの柔らかな物腰で包んで、なにか役に立つ情報はないか、と虎視耽々としているのだ。
しかし、彼らの中には、ごくまれに、自分の会社だけでなく、大きく天下国家のことを思う人間もいた。そういった人物のほとんどは、事業の一線から退き、名誉職だけの人物が多かったが、一郎は彼らのほうが好きになれた。
彼らは、実戦的な考えかたに固執していないぶん、大局的でグローバルな視野をもっていた。彼らの話を聞いていると、しのぎを削る企業間の競争が、小さく見えてくる。その視点は刹那的でなく、歴史的な長い経過でものを考えていた。だから一時期の重大事もほんの些細なでき事と思える。
そしてまた、そんな彼らの考え方は、生まれつき鷹揚でのんびりとした一郎にとって、共感できる考え方だった。
そんな人物の中で、河合という長老と懇意になった。
河合はある銀行の特別顧問で、80代半ばの老人だった。高齢にもかかわらず、まったく歳を感じさせなかった。品格のある顔はつややかで、話しぶりも淡々として、老人臭さがない。しかも、彼の記憶力と洞察力たるや驚くほどだった。
それにいたずら好きの子供っぽさも失っていない。老人は孫のような若年の一郎にたいして、世界や日本のできごとを話すかたわらで、ユーモア溢れるいたずらもやった。
あるとき、一郎はその老人と経団連のラウンジで、雑談をしていた。一郎の横には、フジモリ電子の川勝会長がいた。
「きみたちふたりを見ていると、こんな経済不況の時に、なんでフジモリグループだけが順調に業績を伸ばしているのか、分かるような気がする」
「河合さん、なんでわしたちを見て、そう思うんですか?」
川勝が老人にたずねた。
「かたや海千山千の老練な父親、かたや新進気鋭の息子、この二人三脚が、すばらしいパワーを生み出しているんじゃないかと思ったのです」
「海千山千とか老練とかいう表現は、わしには似合わないけど、それを言うなら、わしよりこの若者のほうが、ずっと老練ですよ。見かけは、純情そうな可愛らしい顔をしていますがね」
一郎がなんで、という顔で川勝を見た。
ふたりを見ながら、河合がおっとりと笑った。
「ほう、それは知らなかった。一郎くんが、そんなにしたたかだったとは」
一郎がなにか言うまえに、川勝がすかさず言った。
「したたかで、それに口が悪い。いつだったか、初対面のときにわしのことを、古ダヌキと言うんですよ。まったく、デリケートな感情を踏みにじりおって――」
「ほう、一郎くんがねえ。しかしデリケートな感情って、誰が持っていたんですって?」
「わしです、わし」
川勝が念を押すように言った。
「――ところで一郎くん、きみはお祖父さん似だね」
河合が急に話題を変えた。
一郎は肩をすくめた。
「皆さんによくそう言われますけど――」
「あまり嬉しくなさそうだね?」
「この顔で、これまでずいぶん損をしていますから」
「損?どうしてだね?」
「子供の頃に、悪ガキ連中によくいじめられました。彼らにとって、いじめやすい顔をしていたんでしょう」
「そうかい?いい顔をしてるじゃないか?」
「ぼくは自分の顔が嫌です。眉や髭が薄くて色が白い。おまけに公家面ときている。そのために、いつも日焼けするように気をつかっています」
「公家面?きみもお祖父さんもそうは見えないけど」
「もちろんぼくは祖父ほど、お公家さんっぽくはないですよ。祖父はとっくに、雄の機能から遠ざかっていますからね」
「きみ、お祖父さんのことを、そんなふうに言っていいのかい?それに、私も、とっくに雄の機能は忘れているよ」
「すみません。表現が悪かったのは謝ります。でも――事実だからしかたがないでしょう?まさか祖父が、男らしい顔をしているなんて、お世辞にも言えない」
「そうかなあ?喜一郎さんは男らしい顔をしていると私は思うけど」
「あのう、河合さん。そんなに無理をされなくてもいいんですよ。べつに、ここでの会話を、祖父に報告するわけではないんですから。ねえ、川勝会長?」
川勝に問いかける一郎の口調は、すこし懇願調だった。
「きみが夕飯をおごってくれたらな」
川勝が冷たく言った。
そのとき、河合老人がふたりの背後を見ながら言った。
「おや、藤森さん。こちらに来られていたんですか?」
振り返ると、無表情にこちらを見る、祖父と目が合った。
一郎はきゅうにおとなしくなった。
「だいたい、けしからんですよ、あの老人は」
一郎は、フジモリ電子の会長室にいた。
「あの老人って、だれのことだい?」
「もちろん、河合さんにきまってるでしょうが」
「で、なにがけしからんのだ?」
「あのとき、会長もおられたじゃないですか。ぼくの祖父が後ろで聞いているのを知っていながら、河合さんは知らん顔をして、いけしゃあしゃあと、ぼくに祖父の悪口を言わせる。あれは明らかに誘導尋問ですよ。おかげで、あれからしばらくの間、祖父から口も利いてもらえなかった」
「でも、河合さんは、なにもきみにお祖父さんの悪口を言え、とそそのかしたわけじゃないだろう?」
「それは、そうですけど――」
「それにきみだって、河合さんにお返しをしたじゃないか?」
「何のことです?」
「とぼけるなよ。銀行に河合特別顧問殿って、郵便でゲイ雑誌を送ったのはきみだろう?」
「――どうしてぼくの仕業だってわかったんです?」
「また、引っ掛かった。きみは素直すぎるんだよ。とにかく、河合さんはお見通しだよ。そんないたずらをするのは、きみしかいないってな」