■ ファンタジー(第2部) - (5)
(5)
気がつくと、眩しい青空が目に飛び込んできた。
ウータンは瞼をぎゅっと閉じ、ついでそっと目を開けた。灰色の優しい瞳がじっとこちらを見ていた。
ハーブがおだやかな声で言った。
「やれやれ、やっと気がついたか」
「てっきりおまえは、くたばっちまったかと思ったぜ」
ケインが老人の背後から顔を出した。
ウータンは船の中に横たわっていた。彼はゆっくりと上体を起こすと、ふたりに聞いた。
「怪物は?」
「死んだ。きみが、とどめを刺したんだ」
ハーブはそう言うと、船縁の先にあごをしゃくった。怪物が白い腹を上にして、海の上に浮かんでいた。尾にロープが巻かれ、船と繋がれている。
「武器はジョーズの体から取り戻した。さあ、あとはきみたちの仕事を片づけよう」
そう言う老人の脇腹と右腕に、何かで抉られたような深い擦り傷があるのに気付いた。
「ハーブ、その傷は?」
ウータンが驚いて聞くと、ハーブが気丈にほほえんだ。
「なあに、たいしたことはない。海水は消毒に利くんだ」
横からケインが言った。
「その傷は、村に戻ればおれが治療してやる。そろそろムーングラスを取りに行こうか」
ケインの言葉で、ウータンは自分の目的を思い出した。彼は老人に向かって聞いた。
「ハーブ、ムーングラスはどこにあるんですか?」
「どうやらジョーズが道案内をしてくれたらしい。あれを見なさい」
ハーブが海の向こうを指差した。
奇妙な格好をした島が、ポツンと海に浮かんでいた。まるで海の中から剣が突き出ているようだ。
「さあ、出発だ。ケイン、帆を張ってくれ」
ケインが怪我をしたハーブに代わって、帆を張った。船は順風に乗って、島の方向に進み出した。
「きみたちのお陰で、わしの念願がかなった」
ハーブが独り言のようにつぶやいた。「わしの妻は、あのジョーズに殺されたんだ」
ウータンはハッとした。じゃあ老人に感じた深い悲しみは、そのことだったんだ。老人を見ると、彼は遠くを眺めながら話をつづけた。
「わしは、両親を亡くした幼いナズミを引き取って、男手ひとつで育てあげた。ナズミは賢くて、かわいらしくて、明るい性格の子供だった。それに彼女は、運にも恵まれていた。あの娘がそばにいるだけで、悪いこともいい方向に向かうんだ」
老人の顔がふっとなごんだ。
「ナズミは16歳の成人式を迎えると、わしの子供になるより、わしの嫁さんになると言った。わしが60歳の時だ。年は離れていたが、わしたちは幸せな夫婦生活を送った。
そんな5年前――その年はどういうわけか、不漁つづきだった。それで村の漁師たちは、ナズミの運の良さに望みを託した。彼女を一緒に連れて行けば、漁の収穫もあがると思ったんだ。たまたま怪我を負って、漁の出来なかったわしは反対した。いくら穏やかな海でも、漁はいつも危険が伴うものだ」
老人は悲しそうに首を振った。
「しかし彼女は、明るく笑ってわしに言った。大丈夫、わたしが村の人たちのために、幸運を呼び寄せてあげるって。あとで村の産婆に聞いて知ったが、彼女はわしの子供を身ごもっていた。それを内緒にして、彼女は漁師たちと海に出かけたのだ。――そして、二度と戻ってこなかった。船着き場にあった船の残骸は、そのときナズミが乗っていた船だ」
ハーブはしばらく黙り込んだ。
ウータンとケインは老人の心情を思いやって、黙っていた。
ハーブは顔をあげると、ふたたび話し始めた。
「他の船にいた漁師たちが、そのときのようすを話してくれた。突然、巨大な怪物が現れて、船を真っ二つにしたそうだ。そのあとは、見るも無残な殺戮がくりかえされた。その怪物は、海に落ちた人間たちを、ひとりずつ食いちぎっていった。ナズミもその中にいた――」
彼は話しながら立ちあがると、船縁に手をつき、空を振り仰いだ。
「わしは自分に誓いをたてた。きっとナズミの仇を取ってやるってな。村人はそのときから怪物のことを、ジョーズと呼び出した。わしはジョーズを退治するために、二度海に出た。そして二度とも失敗した。そのときわしの弟も、海で行方不明になった」
ハーブはふたりの顔を見た。「そんなとき、きみたちが村に来たんだ」
ウータンは何とも言えなかった。口を突いて出たのは、間の抜けた質問だった。
「ハーブは何歳になるの?」
「――66歳だ」
ハーブは素直に応えて、顔をあげた。「さあ、着いたぞ」
船は島のすぐ側まで来ていた。近くで見ると、島は天まで聳え立っているかに見えた。足元は大岩が転がっていたが、上のほうは切り立った灰色の一枚岩だ。岩の裂け目のあちこちで、小さな松の木が緑を添えていた。
老人の指示に従って、ケインが器用に櫂をあやつり、船を島に着けた。
彼らは島に降り立った。
「頂上にきみたちの求めるムーングラスが生えている。白い小さな花の咲いている草だ。ただし効果のあるのは、草の根だ。いいかい、草の根を取ってくるんだ」
ハーブは自分の脇腹をチラッと見やった。
「わしは何度も登ったが、今は無理だ。どちらかに登ってもらわなくちゃならん」
ケインがすかさず言った。
「おれが登る」
「待ってくれ。ぼくが登る」
ウータンがケインを遮った。「ユーミンがああなったのも、ぼくが原因だ。彼はぼくを助けてくれた。だから今度は、ぼくが彼を助ける番だ」
ケインがウータンの顔を見た。そして黙ってうなずいた。
ウータンは登る前に、岩山を観察した。高さは4、50メートルほど。岩の中腹から上は、ほとんど垂直に切り立っている。手掛かりになるのは、岩の表面のわずかな突起や亀裂のみだ。
ウータンは大きく深呼吸をすると、岩山に向かった。彼の背後から、ハーブの声が聞こえてきた。
「いいか、先を急ぐんじゃないぞ。一歩一歩、慎重に登っていくんだ」
ウータンはうなずくと、岩山にとりついた。岩肌は固く、しっかりしていた。
(これなら、岩が崩れ落ちる心配もないな)
彼はゆっくりと登り始めた。
ハーブとケインは下のほうで、ウータンが岩壁をよじ登るのを見守っていた。ウータンは身軽に手足を伸ばして、着実に高度を稼いでいた。
「ゆっくりと登るんだ、ゆっくりとな――」
ハーブが自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「ところでじいさん、この島には海ツバメがいるんじゃなかったのか?」
崖を見ながら、ケインが言った。
ハーブは怪訝そうにケインの顔を見て、それから島の上のほうを見た。彼にもケインの言わんとしていることが分かったようだ。
「そういえば、ツバメの姿が一匹も見当たらん。なんだか不吉な予感がする」
「さっきの怪物のせいじゃないか?」
「ジョーズは海の生き物だ。空を飛ぶツバメには影響がない」
ふたりは顔を見合わせた。それからそろってウータンのほうを、不安げに振り仰いだ。
ウータンは岸壁の中腹にさしかかっていた。彼は縦に伸びた岩の裂け目に手足をかけて、すこし休憩した。
(これからが正念場だな。ひとつのミスも許されない)
ウータンの脳裏に一瞬、足を踏みはずして落下する自分の姿がよぎった。彼は頭を振って、その思いを閉め出した。
ふたたび慎重に、岩壁を登り始めた。わずかな突起に足をかけ、小さな裂け目に手をくいこませて、体を数10センチ刻みで引きあげていく。額に汗が噴き出してきた。彼はユーミンの寝顔を思い浮かべて、自分自身を鼓舞しながら登りつづけた。
途中の岩の裂け目に、松の木が突き出ていた。枝の分かれ目にツバメの巣があった。しかし鳥はいなかった。ウータンは松の根もとに足をかけ、一呼吸いれた。
松の木から離れて、登っているときのことだった。
何かのはばたく音がした。手を伸ばした岩肌に、黒い影が広がった。
ウータンは本能的に首をすくめた。
不意に、右肩に激痛が走った。鋭い爪が肩に食い込んだのだ。
彼はあっというまに落下した。
下で見ていたふたりは、息をのんだ。岸壁にとりつくウータンめがけて、大きな鷲が急降下したからだ。
彼らが警告の声をあげる間もなかった。大鷲が襲いかかり、ウータンの体が岩肌を滑り落ちた。
次の瞬間、ウータンの体が松の枝にぶら下がった。
しかし、彼らがホッとするのもつかの間、鷲がふたたびウータンに襲いかかろうとしていた。
ウータンは松の枝にぶら下がったまま、大鳥と対峙していた。
鷲は空中ではばたいて、彼の隙をうかがっている。
両手が痺れてきた。右肩がズキンズキンと痛かった。しかし、体勢を立て直そうとして、すこしでも目を逸らせば、大鷲はすぐさま襲ってくるだろう。背中の剣を使う暇もない。
このままにらみ合っていて、手が痺れて落下するのか。それとも敵に隙を見せて、攻撃されて落下するのか。
(ええい、どちらにしても落ちるのなら、男らしく戦ってやる)
彼はかかとを岩にかけると、反動をつけて松の木に上体を押しあげた。
頭の上で羽ばたきがした。
ウータンは無意識のうちに、大鳥めがけてエネルギーを放射していた。
ふいに大鷲の体が炎に包まれた。
ギャーッ!
大鷲は一声鳴き声をあげると、ウータンの体をかすめ、炎の尾をひきながら落下していった。
下のほうで見ていたハーブが、驚いて言った。
「なんだ、あれは――」
ケインがニンマリとして、ハーブに教えた。
「ウータンの念術だ。あいつ、奇妙な技を持っているんだ」
ようやく頂上にたどり着いた。ウータンは疲労困ぱいして、岩山の上で大の字に寝そべった。しかし彼の頭の中は、大きな障害を乗り越えたという満足感でいっぱいだった。
呼吸が治まると、立ちあがった。台地の上に、白い小さな花をつけた草が、ひっそりと寄り添うように咲いていた。
(ムーングラスだ!)
ウータンは歩み寄ると、剣を使って草花の根を掘りだした。意外に地中深く、ゴボウのように細長い根だった。
岩山を降りる前に、ウータンはしばし、眼下の壮大な景色に見とれた。
島の周囲は一面の海。遠く水平線が広がっていた。
そして、今やまさに、黄金色に輝く太陽が沈もうとしていた。大空がじょじょにオレンジ色に染まり、その色が広がっていく。
ウータンは深い感動に包まれて、大自然のもたらす奇跡を眺めていた。目に涙がにじんできた。
(ぼくは、この世界が大好きだ)
ウータンはつぶやくと、そっと涙をぬぐった。