■ 血の絆V(前編) - (4)
(4)
紳一は大阪市内にあるホテルのラウンジで、小柄な老紳士と向かい合っていた。その横には、宇野商事の社長がいた。
三友銀行の会長、藤森宗春は、70代にしてなお若々しく、上品で洒脱なムードをもつ老人だった。白髪、色の白い艶やかな頬と品の良いあご。深い二重瞼のすきまから涼やかな瞳が、こちらを興味深そうに見ている。事前に宇野社長から聞いていなければ、紳一はこの老人の容貌にだまされるところだった。
この一見、無邪気で罪のなさそうな老人は、冷徹で、やり手の経営者として知られていた。会長職の今でも、金融業界では隠然たる影響力を持っている。
老人は世界的にも名の知れた、フジモリグループの総帥、藤森喜一郎の実弟だった。また紳一の亡き祖母が老人の姉にあたる。
「この男が、木原酒造の先代社長の一人息子ですわ。変わりもんやけど、なかなか骨のある男でね。あなたとは遠縁らしいでんな」
宇野の紹介に、紳一は神妙な顔をして藤森老人を見た。
「ご無沙汰しております。子供のときに、お会いしたことがあります」
老人は穏やかな笑みを浮かべて、紳一の顔をおっとりと見た。
「あのわんぱく坊主が、こんなに大きくなったのか。そう言えば繁の面影があるな。今の社長は凡人だが、兄貴のほうはスケールの大きな男だった。しかしきみは、親父さんよりもいい男だな」
紳一は黙ったまま、老人の口元を見ていた。形の良い艶やかな唇だった。
(この唇で咥えて貰ったら、さぞかし気持ちいいだろうな)
藤森は話をつづけた。
「こんな立派な男を友達にもってるなんて、宇野くんの意外な面を見たな。若い人には縁のない、頑固なタヌキ親父だとばかり思っていたが」
宇野が笑いながら言った。
「頑固なタヌキ親父とは手厳しいでんな。もっともこの若いのも、顔は真面目やが、たいしたタヌキでんね。いつも囲碁では、わしと化かし合いをやってます」
「ほう、囲碁をやるのか。若いのにめずらしい。そのうち、お手合わせ願うかな」
紳一は軽くうなずいた。老人はテーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばしながら、値踏みするように紳一を見た。「おとなしいんだね。年寄りふたりが相手では、話が合わないかな?」
紳一が、ぼそりと言った。
「元来、寡黙なものですから」
エッという表情の宇野社長を横目に、紳一は藤森会長の顔を真っ直ぐに見た。長い時間をかけて、ワインとミルクで醸成したような顔が、こちらを見返した。この老人は、見かけほどヤワではない。その穏和な仮面の内側では、冷徹で打算的な権謀術策が渦巻いているのだろう。その証拠に、あれほど人を人とも思わない宇野が、この老人の前ではすこし構えている。
それでも紳一は、この祖母の弟、藤森宗春に、不思議な魅力を感じていた。老人の全身からは、長い歴史のなかで淘汰され、醸成されてきた血筋のよさがにじみ出ている。しかも、その地位の高さから来る尊大さは、微塵も感じさせない。コーヒーカップをもつ老人の手を見ると、年寄りとは思えぬほどしっとりとした、きれいな手だった。
老人がたずねた。
「それで、きみは、私にどんな用があるのだね?」
紳一は単刀直入に話した。
「我が社に、300億円ほど融資していただきたいと思っています」
藤森は目をわずかに開いたが、表情を変えなかった。
「300億か――なんに使うんだね?」
「青雲荘をご存知ですか?」
「ああ、知っている。きみの先祖代々の屋敷だ。姉が存命だったころは、私も何度か行ったことがある」
「その青雲荘の再開発を計画しています。オフィス、住宅、店舗――2、3年後には着工したいと思っています」
老人はにっこりと笑った。白い歯がこぼれ、おもわず引き込まれるような笑顔だった。
「時代遅れだな」
にこやかな表情とは裏腹に、藤森はにべもなく言った。
「時代遅れ――どうしてですか?」
紳一はすこし気色ばんだ。
「きみの言うような再開発の話は、雨後の竹の子のように多いんだ。そして、どれも失敗に終わるか、途中で萎んでしまう」
「藤森さんのおっしゃるのは、どれもセオリーを無視した例ばかりです」
老人は、紳一の顔を下からのぞき込むようにした。
「セオリーとは何だね?」
「再開発の目的は、造ることじゃない。造ったあとが大事です」
「そんなことは、きみに言われなくても分かっている」
老人のムッとした口調に、紳一は内心、にやっとした。
(ほう、元気のいい爺さんだ。少しいじってみるか)
彼は嗜虐的な気持ちになった。
「だから、造るのは景気のいいときではなく、悪いときに造るんです。そうすれば低コストでできる。金利だって安く設定できる。そして、景気が良くなった頃に、収穫にとりかかる。これがセオリーです」
藤森老人が意地悪く笑った。
「若い人は単純でいいねえ。しかしきみは、肝心なことを忘れているぞ。造るには金が要る。金を貸す方は、貸した金が確実に収益を生み出すかを考える。それで――こんな不景気な時期に、だれがきみに賛同して、バラ色の夢を見るっていうんだね」
紳一は反論する前に、コーヒーをゆっくりと飲んだ。
老人の顔に、言い過ぎたという表情が浮かんだ。
「紳一くん、きみは若い。それにお父さんに似て、才気もある。しかしあえて言えば、きみもお父さんも頭が切れすぎて、短兵急なところがあるな」
老人はなだめるように、紳一を見た。「私はきみのお父さんが好きだった。――気の強い男だったけどね。これもなにかの縁だ。できるかぎりきみの力になる。いずれきみの計画は、じっくりと聞かせてもらう。ただし――」
老人は一呼吸おいた。
「いまは駄目だ。じっくりと時期を待とうじゃないか」
紳一は姿勢を正した。
「もちろん時期を待ちますよ。着工は2、3年後ですからね。詳細を詰めたり手続きをしたりしていれば、それくらいの時間はすぐ過ぎてしまう。しかし、決断するのは今です」
紳一は身を乗り出した。「それに、お言葉を返すようですが、この悪い時期だからこそ投資するような、先見の明を持った銀行はあるはずです」
老人が何か言おうとするのを遮って、紳一はつづけた。
「私は親父似だとよく言われますが、それは必ずしも当たっていません。なぜなら、私は仕事だけじゃない、家族や友人関係も大切にしています。死んだ父より、もっと幅広く世の中を見ているつもりです。それに、私は途中で萎んでしまうようなことはしません。どんな障壁があっても、必ず乗り越えてみせます。途中で萎むのは――」 (年寄りだけ)と言おうとして、紳一は言葉を切った。
3人の間で沈黙が流れた。
しばらくして、藤森がおだやかに言った。
「きみは寡黙だとか言ってたが、存外おしゃべりなんだね。冗談はさておき、さっきも言ったように、私はきみの力になる。ただし、ビジネスはビジネスだ。言いたいことは遠慮なく言わせてもらう」
「望むところです」
ようやくその場の雰囲気が和らいだ。
「ところできみとは、これからも長いつきあいだ。私は明後日、東京に戻るが、どうだ、明日にでも囲碁をやるか」
「いいですね。ぜひとも教えてください」
「きみはどのくらいの棋力だね」
「さあ――宇野さんとはいい勝負ですが」
宇野が紳一の顔を見て、ニヤリとした。
藤森が言った。
「じゃあ、お互いにいい勝負だ。私も宇野くんとは互角なんだ」
紳一が帰ったあと、藤森と宇野のふたりはホテルに残っていた。
「なかなかいい男だ。ずけずけとものを言って――あれは見所がある」
藤森は言い切った。
宇野はニヤリとした。
「わしが見込んだだけはあるでしょう。しかし、何でもできるという自信過剰のところが、まだ青いでんな」
「それは分かっている。しかし見るからに体育会系だが、デスクワークのほうは大丈夫なのか?」
「あれでけっこう緻密なところがありますわ。すくなくとも、バカじゃありませんな」
そこで宇野は、藤森の顔を見ながらニヤニヤした。「さっきもふたりして、化かし合いをしていましたな」
藤森が怪訝そうに、宇野の顔を見た。
「碁の話ですよ。あなたはわしより2目上だ。それにあの若者も――」
「なに、紳一はきみより強いのか?」
「最近では2目でもかないませんな。会うたびに、強くなっている」
それを聞いて、藤森の手が、ぎゅっと握り締められた。
翌日、藤森会長から電話があった。碁は次にして、今夜は麻雀をやらないかと言う。
「麻雀ですか――下手くそすぎて迷惑にならないかなあ」
藤森老人の声は上機嫌だった。
「きみの言葉は素直に受け取れないけど、ま、大丈夫だよ。みんな下手の横好きばかりだから。ちょうどフジ電子の川勝会長が、出張でこちらに来ているんだ」
フジ電子と言えば、ハイテク産業の最先端をいく一流企業だ。それにフジモリグループの一員でもある。紳一は即座にオーケイした。
フジ電子の川勝会長は69歳だが、非常に存在感のある男だった。でっぷりと太った体を高価なスーツに包んで、その態度たるや尊大そのものだった。半白の頭髪を短く刈りつめ、幅広の顔は歳相応に肉づきがよかったが、何を考えているのか、奥底の知れない表情をしていた。
藤森が紳一を紹介すると、川勝会長の表情が弛んだ。ほんの一瞬だが、彼の顔が笑みを含んだ仏さまのように見えた。
同行の男は、関西支社営業部の伊室と名乗った。50代、中背やや太目の体付きで、人好きのする顔をしていた。態度は低姿勢だが、物怖じしない男だった。
「不慣れなので、お手柔らかに」
紳一が言うと、伊室がにっこりと笑いかけた。
「大丈夫ですよ。わしもへたくそでっから」
でっぷりした体で窮屈そうに腰かけた川勝は、終始無言だった。なかば閉じた瞼の下から、色素の薄い茶色の目が、値踏みするように紳一を見ていた。
ゲームが開始され、3人は慣れた手つきで、牌を扱っていた。紳一はゆっくりとしたペースで、皆についていった。
小一時間が過ぎ、紳一は一番負けていた。
ついていなかった。とくに伊室とは相性が悪かった。紳一が上がれそうになると、伊室がことごとく邪魔をした。伊室はへたくそどころか、プロと言ってもいいほど麻雀に精通していた。
「あ、それ、ロン。ピンフーのみです」
伊室が紳一の切った牌をみて言った。紳一は点棒を渡しながら、伊室の顔をじろりと見た。
「悪いですね。しかし今日はついてるなあ」
伊室は、いけしゃあしゃあと言って、紳一に笑いかけた。点棒を受け取るぽっちゃりとした手を見ながら、紳一の頭の中で、残酷な思いが駆け巡った。
(この父っちゃん坊やを押さえつけて、抵抗する体から一枚一枚、服を剥ぎ取る。そして泣き叫ぶ相手にかまわず、初物を試食する――)
テーブルに茶菓子が運ばれ、小休止があった。紳一はほっとした。
負けている紳一を見て、二人の老人の顔に満足そうな表情が浮かんでいた。それに気づき、紳一の頭の中で、闘争心がめらめらと湧き起こった。
伊室はトイレに向かった。紳一はその後を追った。トイレで、小便器にむかってチロチロと放尿する伊室の横に並んで、紳一は勢いよく小便をした。驚いたように伊室が横を向いて、なおギョッとした表情をした。
トイレから戻るとき、紳一は伊室のぽってりした尻をぴしゃりと叩き、ごつい手で乱暴に撫で回した。
「これで伊室さんのつきが、ぼくにも回ってくるかな」
後半は、紳一につきが回ってきた。驚いたことに、役満を2度もやった。それも狙い撃ちするかのように、2回とも伊室から上がった。
こんどは伊室がしょんぼりする番だった。
「伊室の尻を触ると、なにかご利益でもあるのかな」
手牌を見ながら、川勝会長がつぶやいた。その表情からは、何もうかがえない。
(油断のならないじいさんだ。さっきのことを見ていたのだな)
紳一は、のうのうと言った。
「アゲマンって言いますけど、伊室さんはアゲ尻ですね」
とたんに、川勝会長が豪快に笑った。そして藤森に言った。
「なかなかおもしろい男ですな」
「ああ、きみに似てタヌキだしな」と藤森会長が言った。
「会長も口が悪い」
紳一の方に向き直ったとき、川勝会長の顔は、魔法をかけられたように人懐っこい表情になっていた。
「今度、東京のわしのところに遊びに来なさい。藤森さんからあんたの開発の話は聞いている。関西支社の事務所候補として興味がある。うちの下村社長を紹介しよう」
「ぜひともお願いします」
紳一は、内心、小躍りせんばかりだったが、押さえた口調で言った。