(3)
その日、大園専務はいつになく機嫌がよかった。新聞に、世の中の不景気に逆行して売り上げを伸ばす、木原酒造の記事が載っていたのだ。
彼は総務部にふらりと立ち寄ると、空席になった木原部長の椅子にどっかりと座った。そして、きれいに整頓された机の上を見て、彼にしては珍しく軽口を叩いた。
「ほう、仕事の効率がいい人間の机ともなると、きれいに片付いているもんやな」
そこでクックッと笑った。「それとも、もともとやる仕事がないのかな」
専務の機嫌のよさにつられて、福井がお愛想笑いをした。
「ところで、この机の持ち主はどこへ行ってるんや?」
「木原部長は、ヨーロッパに出張中です」と福井が答えた。
それを聞いて、大園のめったに見られない明るい表情が、すこし曇った。
「なにっ、こんな不景気なときに海外出張か。豪勢なことやな」
そこで、もうひとつの空いた席を見た。「真山は?」
福井は一呼吸おいて、おずおずと言った。
「真山取締役も、木原部長とご一緒です」
途端に、雷が落っこちた。
「なにい!管理職がふたりそろって海外出張やと!何しに行ったんや?」
それに答える福井の声は、震えていた。
「そのう、海外の商業施設の先例を視察に――Sプロジェクトの参考にするんだとか」
「聞いてないっ!わしは一切聞いてないぞ!」
「でも先だって、出張の追加予算のご承認を専務にいただきました――」
大園にジロリとにらまれて、福井の声が尻すぼみになった。
専務の声が低くなって、不気味な兆候を帯びてきた。
「そうやったな、木原部長のたってのお願いや言うて、予算申請に来たのはきみやったな。それで、あのとききみは、わしに説明してくれたかな。真山と木原がふたりして海外に出張するためやと――」
福井は下を向いて黙り込んだ。まさかふたりのほかに、ポール・マッケンナまでが加わっているとは、今更言えなかった。彼の不安に追い討ちをかけるように、専務の声が聞こえてきた。
「福井、この話はここではなんやから、わしの部屋に来てくれ。じっくりと聞きたい」
このときほど福井は、木原部長の存在を渇望したことはなかった。
そのころ、紳一らはヨーロッパに向かう機内で、のんびりとしたひとときを過ごしていた。
海外旅行が初めての真山は、あれやこれやと横に座るポールに質問した。ポールは、ヨーロッパ各地を旅行した経験があり、修学旅行にいく小学生のように目を輝かせて質問する真山に対して、鷹揚に微笑みながら相手をしていた。
前の席には、紳一とエース設計事務所の安岡が座っていた。安岡は、紳一の卒業した大学の後輩だが、見た目には紳一より年長にみえた。30半ばにして腹はでっぷりと膨らみ、ほがらかで明るい性格の男だった。
「おれが欲張ってると言うが、経済的に見れば、ちゃんと必然性があるんだ」
先ほどから、話をするのは紳一で、安岡はもっぱら聞き役に回っていた。
「事業的には、住居系の単一機能でも充分やれる。確かにお前の言う通り、オフィスや商業施設は難しい。しかし住宅は売ってしまえば、一時期の利益で終わってしまう。対して、オフィスは優良テナントが決まれば、長期的に安定した賃貸収入が見込める。残りの商業施設は利が薄いのは事実だ。しかしうちは造り酒屋だ。酒を売ってるのなら、酒を消費する店を作るのも一法だろう。――まあ、商業施設は計画の味付けだな」
安岡がおもむろに口を挟んだ。
「先輩の言うことは理解できるけど、3つの機能を複合させるのは、中途半端になる危険性がありますよ」
「複合開発といっても軽重はあるんだ。メインはオフィスだ。それに分譲マンションは、資金の早期回収のために、どうしても必要だ。このふたつをできるだけ立体利用して、残りの空地をコミュニティーとアメニティーの場にしたい。飲食店舗、物販店舗、スポーツや生活関連サービス――それら機能を建物とオープンスペースの中に、いかに融和させるかだ。お前の腕の見せ所だ」
安岡はニヤリと笑った。
「任せてください。先輩ほどの閃きはないけど、ちょっとしたヒントがあれば、それを具体化するのは私の得意分野だ」
「だからおまえに声をかけたんだ」
「あとは会社のお偉方と、役所ですね。神戸市は、開発指導が厳しいことで有名ですよ」
「役所の方は何とかする。建設局長の中田さんが来年、定年退職だ。うちに来て貰って、いろいろ指導してもらうよ」
安岡が笑った。
「自信がありそうですね。中田さんを知ってるんですか?」
「ああ、商工会のクラブで、ときどき会っている。なかなかの紳士で、性格も温厚だ。頭も切れるし、部下たちにも慕われているようだ。それよりも問題なのは、社内の堅物どもだ。あいつらの頭の硬さといったら、まるで石器時代だ」
――*――
木原酒造の経理課長、角岡は、白っぽいイメージの男だった。52歳にしてほとんど白くなった頭髪、色白の顔、薄い眉毛と色素の薄い唇。小太りの体つきや物腰の柔らかさは、どことなく影の薄さを感じさせる。
彼は仕事で遅くなったときは、ときどきなじみのバーに寄った。英国パブの雰囲気を漂わせたこの店は、角岡の自宅の最寄り駅近くにあった。学生の客が多いだけに、料金はさほど高くない。そしてなによりも、彼の知り合いが来ないのがよかった。
店員はといえば、磨き上げられたカウンターの奥に、年配のバーテンがひとりいるだけ。この中村という名前のバーテンは、50歳を過ぎてなお独身を通していた。キューピットのような顔をした小男で、若い客たちから『シゲルさん』と呼ばれ、親しまれている。この可愛らしい年配者は、数人の男性客と不適切な交際をしているようだ。
角岡はこのひとときが好きだった。のんびりとくつろいで杯を傾け、店に来る若い客たちの会話を聞く楽しみ――彼らは溌剌として、何の苦労もないように明るかった。
心地よい酔いが全身に行き渡り、角岡はそろそろ家に帰ろうと思った。席を立とうと腰をあげかけて、鏡に映った人物を見て驚いた。同じ会社の木原部長だった。
「やあ、これは奇遇だな。よくここに来られるんですか?」
紳一は角岡の横に腰掛けながら、話しかけた。
声をかけられて、角岡はどぎまぎした。木原が会社創始者の直系であることは、いまや社内では周知のことだった。しかも血統がいいだけでなく、切れ味鋭い頭脳の持ち主であることも、これまでの会議の席でなんども見てきた。
角岡は居心地悪そうに、椅子の上で尻をもぞもぞとして、木原の問いに答えた。
「家が近いんで――木原部長も、この店をご存じだったんでっか?」
「学生の頃、ちょっとね。ずいぶんご無沙汰してたけど。それより乾杯といきましょう。――シゲルさん!」
紳一はバーテンに向かって合図をした。バーテンがいかにも親しそうにうなずきかけ、グラスを持ってきた。
最初は緊張気味だった角岡も、紳一のざっくばらんな話術に、硬さがとれてきた。そして30分後には、いつも以上に杯を重ねて、警戒心を解いていた。
「ところで角岡さん、これはあくまで仮定の話だけど、当社が300億ほど融資を受けるとしたら、どの銀行ですか?」
角岡はウイスキーにむせた。
「300億円!大金でんな。なんに使うんでっか?」
「だから、あくまで仮定の話だと断ったはずです。どこの銀行ですか?」
角岡は、酔った頭で考えながら言った。
「あまりにも膨大な金額ですから。そうでんね、やはり当社の一番の取引先、三友銀行でしょう。同じフジモリグループでもあるし。でも無理ですよ。そんな大金に見合う担保と預貯金なんてありまへん。それに、年間の返済利子だけでも10億円近くになる。当社の能力外の話でっせ」
紳一がにんまりした。
「まあ、担保の話は置いといて。角岡さんに、折りいって頼みがあります。明日、お暇なときに、うちの打ち合わせ室に来てくれませんか?ちょっと試算してもらいたいんです。ただし、部外秘ということでお願いしますよ」
紳一は親密なしぐさで、角岡に向かってウインクした。「もちろん大園専務にも内緒。あのじいさん、どこにでも首を突っ込みたがるから」
角岡はぎょっとした顔つきで、紳一を見た。
「とんでもないです!専務に内緒だなんて、そんなことできまへん」
「へーえ、おれの親父が頼んだとしても、大園をたてるのか」
紳一は突然、声の調子を変えて言った。
そして相手の疑問符の表情を見ながら、話を続けた。「おれの親父には、ずいぶん可愛がってもらっただろう?その息子のお願いは聞けないってわけだ」
不安そうな表情を浮かべる角岡の肩に、紳一は腕を回した。それから、アルコールでピンク色に染まった耳元に顔を近づけて、ほとんど親密ともいえる口調でささやいた。
「大丈夫だって、あくまでペーパー上での試算だから」
それでもなお角岡は逡巡していた。
肩に回された紳一の手が、丸みを帯びた体の線をたどりながら下におりて、尻の膨らみでとどまった。
「まあ、今夜は飲み過ぎたようだから、ちょっと休憩しますか。ゆっくりとくつろげる所を知ってるんだ」
尻の窪みをぐっと押されて、角岡は思わず喘ぎ声をあげた。
角岡課長は素直にホテルまで付いてきた。そして開き直ったのか、従順に服を脱ぎだした。ふたりは裸になって、バスルームでシャワーを浴びた。
初老男の裸体は、想像以上に肉付きがよかった。しかも肌は異質の白さで、肌理も細かい。そっと尻に手を這わせると、角岡は恥じらいながらもあごを反らせた。如何にも行為に慣れきっている反応だ。
ベッドに入ってからは、角岡はすっかりその気になって、何のためらいもなく紳一のオトコを口に含んだ。そして紳一の愛撫に、乱れに乱れた。まるで謹厳実直な男が、夜になると妖艶な娼婦に変わったかのようだった。これほどギャップのある男も珍しい。
背後から貫かれたときは、さすがに苦しそうだった。それでも豊満な包容力でもってすぐに馴染み、陶酔の世界に入り込んでいた。
すっかり終わったとき、紳一の顔を見る潤んだ瞳は、愛しい人を見る目つきに変わっていた。ピンク色のふっくらとした唇が、何かを求めるように柔らかく開きかけている。その唇をたっぷりと吸ってやったあと、紳一はささやくように言った。
「すごく良かった。こんな気持ちになったのは初めてです。じゃあ、明日はお願いしますよ、あなただけが頼りなんだから。――それから、三友銀行でもっとも影響力のある人物はだれですか?」
