■ 血の絆V(前編) - (2)
(2)
いつになく多かった六甲山の雪も、今や跡形もなく消え去っている。
5月に入って、若者を集めての新酒の研究は、順調に進んでいた。
いっぽう、紳一と青柳取締役の仲も、小康状態がつづいている。それは多分に、年配者の方が年下の男の才能をいやいやながらも認めて、自分の部署の社員にアドバイスするのを黙認しだしたからだ。
今日も、紳一は営業部に出向いた。部屋に入ると、青柳取締役が若い営業部員と一緒になって、なにやらはしゃいでいる。
青柳が紳一に気づいて、手にした雑誌をふりかざした。
「やあ、木原くん。新しい社友誌ができたぞ。見ろよ、とてもいい出来だ」
青柳の明るい声につられて、紳一もあたたかく微笑んだ。
「なんですか?青柳さん」
紳一はさしだされた社友誌を見た。とたん、彼の顔が強ばった。そのページには、総務部の宴会で、女装した紳一が真山と踊っている写真が、大きく掲載されていた。写真の上のほうに『総務部の美人芸者?』とタイトルが記されている。
「きみがこんなに色っぽいとは思わなかったな」
青柳は、恰幅のよい体を紳一に押しつけてきた。「お姉ちゃん、今晩わしとつきあわんか?なんだったら、ニャンニャンしてもいいんやぞ」
「青柳さんがその気なら、いつでもお相手しますよ」
紳一は軽くいなした。それから何気なく訊いた。「ところでその写真、だれから手に入れました?」
総務部の打ち合わせ室は、紳一の編成したチーム、若い江口とポール・マッケンナの専用室になりつつあった。テーブルの上には、図面や資料が所狭しとばかりに積み上げられている。
ポールは紳一が北米から連れてきた50代の男だった。大の日本びいきで、何の不自由も感じさせないほど日本語が話せた。それに、飄々として、どことなくとぼけた風貌は、相手に親近感を覚えさせる上で、おおいに役立っているようだ。
いまもこの部屋では、紳一と担当のふたり、それに真山取締役と植田課長が加わって、熱心な打ち合わせが行われていた。もっぱら紳一が話して、植田が息つく暇もないほど忙しくメモをとっていた。
「マロちゃん、これまで5年間の会社収支の実績資料を、経理から取り寄せてくれ。それを分析して、会社の財務体質をつかみたいんだ。
それから江口、きみは原建設の概算見積もりを参考に、3つのマスタープランそれぞれのイニシャルコストを出してくれ。分からないところは、マロちゃんに聞いてくれ」
江口と植田課長が、顔を見合わせてうなずいた。
「それと、平成不動産に行ってくれ。都市開発部の今井主任は、おれの大学同期だ。彼とは話をつけてある。マンション事業のイロハを教えてくれるはずだ。とくに事業収支の組みかた、分譲後の管理形態、このふたつは重点的に聞いてくれ。
それからポール、きみは宇野商事のじいさんだ。じいさんにはこの前、宿題を出してある。高級和洋食店から焼き肉、シーフード、おでん等の大衆飲食店まで、混在して両立させるにはどうしたらいいか。同じ建物内でできるのか、建物を分けなければいけないのか。全国の複合店舗のデータを集めてくれているはずだ。じいさんに連絡をとってくれ」
ポールが気後れしたように言った。
「宇野社長ですか?あの人、ちょっと恐いな――」
「とって食いはしないよ。――よし、おれもいっしょに行こう。それから――」
紳一は真山を見た。「取締役、エース設計の安岡と相談して、海外視察先の候補を絞り込んでもらえますか。フランスとイタリアは決まっているから、あとはアメリカとカナダあたり――森に囲まれた伝統的な雰囲気、あるいはウォーターフロント開発かな」
言い終わったところで、紳一は部屋を見渡した。
「ところでフグはどこへ行ったんだ?」
江口が答えた。
「さっき大園専務から電話がありましたから――専務室じゃないですか」
「あいつ、最近よくタヌキおやじのところに行ってるな」
そのとき、部屋の電話が鳴った。
電話に出た植田が、受話器を押さえて言った。
「部長、大園専務からです」
あまりのタイミングのよさに、部屋の全員が顔を見合わせた。
「いないと言ってくれ」と紳一。
植田課長が受話器に向かって、恐る恐る言った。
「いま木原部長は不在ですが――えっ!――はっ、はい、分かりました」
植田は受話器を置くと、きまり悪そうに言った。「木原がそこにいるのは分かっておる、早く来るように伝えろ、だって」
「ちょうど外から戻ってきたところでして――」
紳一はにこやかに話しかけながら、専務室にはいった。そこで大園の厳しい顔つきに気づき、内心、身構えた。(──やばい!)
大園の表情は、雷の落ちる前兆だった。その前に座る福井は、丸い体をますます丸っこく縮めている。
「青雲荘を開発するそうやな?」
前置き抜きに、大園が訊いた。
紳一は福井の方をちらっと見やり、悪びれもせずに答えた。
「ちょっと計画しているだけです」
「ちょっと計画やと――そんな無駄なことはやめてもらいたい」
紳一は開き直ったように、大園の顔を真っ直ぐに見た。
「専務、そのお言葉は撤回してください。会社資産の有効活用のシミュレーションをしているのですよ。これだって、総務部のりっぱな仕事です」
「――相変わらず、いっぱしのことを言う」
大園は紳一の逆襲にあって、ちょっと気勢をそがれたが、素早く攻め口を変えた。「きみは社員の健康管理を考えたことがあるかね。最近、総務部社員の残業が多いようやが」
「以後、気をつけます」
紳一はあっさりと認めた。
「それから、きみが手がけているSプロジェクト――青雲荘の開発の件や。そんな、会社にとって重要なことは、たとえ計画だけとはいえ、幹部会に諮ってもらいたい。外部の組織も使っているんやろ」
「分かりました。概略まとまりましたら、ご報告します。それから――」
紳一は立ち上がりながら、福井の方を見下ろした。「私のことで聞きたいことがありましたら、直接私に聞いてください。べつに福井次長が専務のご寵愛を得ていることを、嫉妬しているわけではありません。ただ、陰でこそこそやられるのが、嫌いなだけです」
紳一は『ご寵愛』というところで、力を込めて言った。福井が顔を赤らめて、ソファーのうえで小さくなった。
大園はバツの悪そうな顔をしたが、平然と言った。
「おいおい、それは言いがかりやぞ。わしはただ残業時間のことが気になって、福井に聞いただけや。そこでちょっとプロジェクトの話を小耳に挟んだんや。べつにきみのことを詮索してるわけやない」
「そうですか――」
紳一は専務の顔をじっと見た。そして部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待て、木原部長、まだ話がある。――福井、おまえはいいぞ」
福井が部屋を出たあと、大園はしばらく沈黙したまま窓の側に立って、外の景色を眺めていた。紳一もそのうしろに立って、大園の話を待った。
大園はちいさく溜め息をつくと、紳一の方に振り返った。
「福井の件はわしが悪かった。これからは二度としない。今考えると、あんなことをした自分が恥ずかしい」
思いがけず、自分の非を素直に認める年配者に、紳一はおもわず一歩、あとずさった。
大園は話をつづけた。
「でも、これだけは分かってくれ。そんなことをしたのも、きみが心配だったからや。
きみはアメリカの企業に勤めていたが、日本の会社ではまだ新人や。こんな事を言うと古臭いかもしれんが、日本の会社には一定のしきたりとかルールがある。とくに歴史のある会社ほど、そんなことを気にする人間が多い」
紳一がなにか言おうとすると、大園は手を上げてつづけた。
「社長もわしも、そんな環境の中できみがうまくやっていけるかどうか、心配やった。
しかし今は、ほんの僅かやが、きみを理解できたと思うてる。きみはどうやら、お父さんとおじいさんの素晴らしい資質を受け継いでいるようや」
紳一が口を挟んだ。
「じいさんに似ていると言われるのは嬉しいですが、親父似と言われるのは嫌いです」
大園は紳一の顔をまじまじと見た。
「しかしきみは事実、お父さんに似ている――先代社長にね。きのう川井田が白状したんや。あの新製品開発の発案者がだれかってことを。それだけやない、青柳のところの広告宣伝にしたって、きみのアドバイスがあったからだろう。
それはともかく、きみの卓越した発想と企画力には、正直言って感服している。きみのお父さんもそうやった。きみを見ていると、繁社長がいかに多くのものをきみに残したか、よく分かる」
紳一は窓に近づいて、外を眺めた。敷地外周の赤松越しに、黒っぽい海が見える。
「木原繁が私に何を残したって?何も残してもらった覚えはない!」
紳一の語調の強さに、大園はおどろいてその後ろ姿を見守った。紳一が振り向いたとき、その顔に浮かんだ厳しい表情は、先代社長にそっくりだった。
大園はおもわずたじろいだ。
「ぼくは父に何も残してもらっていない。ぼくは母子家庭で育ったようなものです。だから小さいときから父親の愛情に飢えていた。――大学1年のとき母が死んで、父に最後のアプローチを試みました。こんどいっしょに旅行にでも行こうって。――ものの見事に振られましたよ。仕事が忙しいからと――」
一気にまくしたてると、紳一は一呼吸おいて軽く頭を下げた。
「すっかり興奮して、失礼しました。――アメリカではいいことを学びましたよ。組織より個人を優先すると言うことです。それはともかく、今後私の言動でお気に触ることがありましたら、遠慮なく言ってください。私は大園専務を尊敬していますから」
紳一が部屋を出ていったあと、大園はしばらく物思いにふけった。
御曹司が垣間見せた複雑な心情――。ふと気づいた。木原紳一が年配の男を抱いているという情報が事実なら、それは父親への対抗意識からではないだろうか?あるいは、愛情の裏返し?先代社長の男好き――それを自らも実践することで、父親と同化しようとしているのか。
その夜、福井次長は、木原部長から晩飯に誘われた。そして食事がすむと、当然のことのようにベッドのお付き合いもさせられた。
シーツを握りしめて息も絶え絶えに苦悶する福井に覆いかぶさって、紳一はゆったりと腰をうねらせながら、子供に言い聞かせるような口調で話しかけていた。
「いいか、福井。今後、タヌキおやじからお呼びがかかったときは、必ずおれの了解を取ってから行くんだ。分かったな」
「はああ――苦しい――分かりました」
「うん、よく聞こえなかったが、分かったのか」
紳一は勢いをつけて奥に突き入れた。
「うわあっ!分かりましたあっ!」
福井が顎をのけ反らせて、叫び声をあげた。
「よおし。それからおまえに聞きたいことがある。おまえ、営業の青柳に、いいものを渡しただろうが」
「えっ、いいものとおっしゃいますと」
「へーえ、おまえって役者の素質があるんだ。それとも大園じじいのとぼけが伝染したのか。――じゃあ、思い出させてやろうじゃないか」
紳一は腰の動きを激しくした。
「ぎゃーっ!痛いいぃ――本当に知らないんですっ!うわあっ!」
「強情なやつだ。じゃあ、宴会のときの写真はだれが渡したっ!」
「あっ!あれは、青柳取締役じゃなくて、営業部の若い社員に――」
「やっぱりおまえだったんだな。ようし、まだおまえとは、親密な信頼関係が築けていないようだ。これからたっぷりと可愛がってやる」
それから30分後、声もなくぐったりとした福井を見下ろしながら、紳一は満足そうな声で言った。
「どうだ、これで少しはおれが好きになったか。じゃあ、これからは仕事の話だ。明日、大園のじじいのところに行って、出張の追加予算を取ってくれ。300万ほどあれば足りるだろう」
「そんな――この時期、あの大園専務を説得するのはとても無理です」
「心配するな。おれのたっての頼みだと言えば、判を押してくれるさ」
翌日、福井は、キツネにつままれたような気分だった。恐る恐る出張予算の追加申請に行ったところ、大園専務は何も言わずに、あっさりと捺印してくれたのだ。