目 次
血の絆V(前編) - (2)
(2)

しばらくの間、紳一は従順に老相談役の言うままに従っていた。商工会館の中にある碁会所に、週に一回通うのもそのひとつだった。
北田が言うには、そこにはよく関西財界の重鎮たちが集まる。彼らと顔見知りになっておれば、いろいろと為になることも聞ける。それに囲碁そのものも、マネージメントの感覚を磨くのに、けっこう役立つゲームだ、と。
碁会所に集まる客の多くは、紳一の父親以上の年配者たちが多かった。冨と地位を手に入れた彼らは、仕立てのよい服装で、美食に慣れきった肉体を巧妙に隠していた。
さいわい囲碁は子供の時、祖父に手ほどきを受けて、そこそこの腕前をもっていた。もっともこの数年間は、石を握ったことがない。紳一は生来のざっくばらんさで、初対面の年配者たちに対局を申し入れた。
彼らは最初のうち、この日焼けしたサラリーマンともスポーツ選手ともつかない男に、戸惑いを感じているようすだった。会社勤めらしい地味なスーツを着ていたが、彼らの会社の社員たちとは異質の雰囲気をもっていた。物怖じせず、ずけずけとものを言い、底抜けに明るくて、それでいて妙に落ち着いている。
紳一は勝負にこだわらず、勝ったり負けたりした。彼の棋風はちょっと風変わりで、地にこだわらない大模様のおおらかな打ち方をした。
数ヶ月後には、紳一の姿が碁会所にあらわれると、あちこちから対局の誘いがかかるようになった。

ある日、紳一は、年のころ70歳前後の老人と碁を打っていた。老人は身長150センチそこそこの小男だが、その小さな体からは、厳しい競争に勝ち抜いてきた商売人の迫力がにじみ出ていた。風雨に晒されたような渋茶色の顔は、人を食ったとぼけた表情をうかべている。
勝負の方は、どうも紳一のほうに分が悪かった。一番手直りの互先から始まって、あっというまに2目置かされるはめになっていた。その2目局も終盤にさしかかっていた。盤面をにらみつけて苦吟する紳一を見下ろしながら、扇子を片手に老人は、涼しげな顔で次の手を待っていた。
老人はわざとらしく腕時計を見た。そして独り言のようにつぶやいた。
「おっと、もうこんな時刻か。下手な考え、休むに似たりか――」
老人の嫌味を聞こえぬ振りをして、紳一は盤面に没頭しようとした。内心は煮えくり返っていた。最初の手合いのとき、老人はいかにもへりくだった調子で、紳一に教えを請うてきたのだ。
ところが何のことはない、老人は強かった。それだけならまだよかった。紳一がカリカリしたのは、ことあるごとに、彼の心情を逆なでするようなことをつぶやくからだ。
「おやおや、元気のいい手を。我が身をかえり見ずやな――」
「おっと、ちょっと早漏ぎみの手やな。じっくりと攻めないと女に嫌われちゃうよ、ぼく」
「そんな無理手をやって――世間じゃ勇み足って言うな」
「おんやまあ、純情な手じゃな。それじゃあ世の中で押しつぶされちゃうよ」
老人はボソボソとつぶやきながらも、紳一にはっきりと聞こえるように言う。そして、勝つと喜びを押し殺して、それでいて嬉々とした声で、紳一を慰めるのだ。

紳一はこみあげる怒りに、囲碁に集中するどころではなかった。頭の中では、目の前にいる年寄りの小さな体を、何度締め上げ、へし曲げ、押しつぶしたか分からない。
膝に押しつけたこぶしをブルブルと震わせて、紳一は蚊の鳴くような声で言った。
「ありません――」
老人はすっとぼけて、紳一の顔をのぞきこんだ。
「えっ、今何かおっしゃいましたかな」
「まいりましたっ!」
紳一は大声で言った。
他の客が驚いて、一斉にふたりのほうを見た。

次の週から紳一は、その碁会所に顔を出さなくなった。と言っても、囲碁をやめたわけではない。会社では昼休みを利用して、社内で一番強いと評判の真山と早碁をした。会社が引けると、こんどはプロ棋士のもとで碁を教わった。このときほど真剣に、囲碁に取り組んだ時期はなかった。
3ヶ月後、商工会館の碁会所に紳一の姿があらわれた。ほどなく例の老人が現れ、紳一の姿を認めてにんまりとした。
「おや、木原さん、お珍しい。わしはまた、あんたが碁を辞めたのかと思ってた」
そこで老人は、クックッと笑った。「ショックが大きくてね」
紳一は、面白くもないといった顔をして、老人に言った。
「仕事が忙しかったものですから。今度は手加減しませんよ――お年寄りだといって」
「おや、大きく出ましたな。その意気込みがいつまでつづくことやら」
老人はいそいそと碁石を用意しながら、言った。

2時間後、怒りに震えて碁盤をにらんでいるのは、老人の方だった。老人は定先に追いやられ、いまやその定先局も大きく負けようとしていた。盤上のあちこちに、生きる見込みのない黒石が散乱していた。
紳一は腕組みをして、うつむいた老人の薄い頭を心地良さそうに見ていた。こんどはお返しの番だった。彼は独り言を言った。
「年寄りがあんまり根を詰めると、血圧が心配だなあ。なんて言ったっけ、たしか、年寄りの冷や水とか――」
そのとき老人が、大袈裟な仕草で腕時計を見た。
「おっ、もうこんな時間か。きみ、悪いけど約束があるんや。残念やけど、この勝負は引き分けってことにしとこう」
引き分けどころか形勢は20目以上開いている。紳一はそれには触れず、憮然とした表情でドアに向かう老人の後ろ姿に向かって、明るい声で言った。
「今日はありがとうございました!お陰様で気持ち良く碁が打てました」
一瞬、老人は立ち止まったが、後ろも見ずにそのまま部屋を出ていった。

――*――

「青柳くん、これで18ヶ月連続の売り上げダウンや。不況の時期とはいえ、ちょっとひど過ぎやないか」
木原社長に名指しで非難された営業部取締役の青柳は、顔を赤らめたが、持ち前の負けん気で言った。
「確かに社長のおっしゃる通りです。この厳たる数字は、私も真摯に受け止めております。それに、いくら経済環境が厳しいとはいえ、ここで言い訳しても始まりません。とにかく営業部員一同、一丸となってこの苦境を乗り越えるほかありません」
月に一度ある会社幹部の集まる、会議の席上だった。
この2年越しの業績悪化に、社長はいつになく機嫌が悪かった。幹部たちは、皆一様に神妙な顔つきで席に着いていた――ただひとりを除いては。
木原紳一は会議テーブルの末席で、ウツラウツラとしていた。昨日は深夜まで若い蔵人たちと酒を飲んで、眠ったのはほんの3時間ほどだった。ときおり横の席から、真山取締役が肘で紳一の脇腹を突いていた。

「それでなにか策はあるのか?」と社長が聞いた。
青柳が答えた。
「ハイ、既存の得意先店舗と新規開拓の販売店とを、営業部員を分けて班編成で当たらせています。既存のお得意先には、売り上げが伸びるような経営上のアドバイスができる社員を。新規開拓には、生きのいい若手社員を中心に配分しています」
「うん、いい考えや。がんばってくれ。しかし結果がすべてやからな。とくに先月の大きな落ち込みを、早く取り返すんや」
「はい。先月は大口顧客の宇野商事が、他社の酒を使ってみたいと、一方的に当社からの仕入れを半減しまして、これから巻き返しに向かうところです。ただ、言い訳をするわけやないんですが――宇野商事が新規に仕入れることにした他社は、当社よりさらに1割値下げしたそうです。今の厳しい時代には、何と言っても安いことがものを言いますから」
そのときテーブルの端の方で、紳一がボソリと言った。
「言い訳してるじゃんか」
木原社長と青柳取締役が、声のした方をジロリとにらんだ。
すかさず社長が大声で言った。
「木原部長、発言があるのなら、はっきりと言ってくれ」
「とくにありませんっ!」
紳一も負けじと、大声で返事をした。

「紳一、お前は会議のとき、わしに何か言いたいことがあったんやないか?」
会議の後、青柳取締役が紳一を呼び止めて言った。
「いえ、べつに」
「いいや、言いたいことがあったはずや。お前の顔に書いてある」
紳一は、すぐそばのトイレにある、洗面台の鏡のほうを覗き込んだ。そして言った。
「なにも書いていませんけど」
青柳は顔を赤く染めて、言葉にならずに口をパクパクさせた。
「――坊や、お前が先代社長の息子やからって、ここでは通用せんぞ。先代が決めた社訓は、実力主義や。おつむの軽い七光りの坊やは、必要ないんや」
この青柳も木原一族と親戚関係にあるので、ずけずけとものを言う。それに以前、優秀な若手部員を施設課に引き抜かれたことを、今もって根に持っていた。
紳一は鼻で笑った。
「その点、青柳さんはいいですねえ。おつむも重いけど、お尻も重い」
「坊や、口だけは達者やないか。それでなにかい、お仕事の方はパパがいなくてもできるのか?」
「その点は心配無用です。なんだったら、そちらの仕事も手伝いましょうか?だいぶご苦労されてるようですが」
「ほう、でかい口を持ってるんやな。宇野商事の件も、まとめられそうやないか」
「朝飯前とは言わないけど、晩飯には間に合いそうですわ。それから、でかいのは口だけじゃない。アレもでかいんですわ――短小のだれかと違って」
紳一は思わせぶりに青柳を見た。
「この野郎っ!」
ちょうど通りかかった真山が止めに入らなかったら、ふたりは取っ組み合いの喧嘩をしそうな雰囲気だった。
[18/08/07 06:57 閑名三爺]
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